岡山の法界院住職松坂帰庵の前回の文章の続きと鐘銘の模様を描いた画家竹内清の文を紹介する。『八栗寺の鐘』という小冊子には、會津八一の「八栗寺の鐘」という一文も収録されており、新しい梵鐘誕生の中心になった3名がそろっているが、八一の文はすでに『全集』第七に収録されており、また『続 渾齋随筆』(中公文庫)にもあるので、このブログには掲載しないこととした。

 

興味を持たれた方はぜひご近所のお寺の梵鐘の鐘銘をご覧になっていただきたい。八栗寺の鐘銘がいかにユニークかお分かりいただけると思う。またこのブログ収録の私の一文「わたつみの」もお読みいただければと思う。

 

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八栗寺梵鐘と秋草(艸)道人

 

松坂 帰庵

 

(前回からの続き)

十一月十三日、秋草(艸)同人からの手紙に

 

かけものの場合と異り、永遠に陽光のうちに曝さるるものなれば文字の出来映が、専門家にも、門外者にも、道人にも、俗衆にも、よく見えねば、外光の中に懸垂さるる鐘の文様としては全然失敗(下略)

 

と云って来られた。

得難い銘文を揮毫していただいたからには立派に鋳造せねばならぬ。それには鋳型の彫刻が肝心である。職人に彫刻させては文字を台なしにくづしてしまうので、岩沢氏に鋳型の版木を作ってもらい、文字の彫刻は私が執刀することにした。十一月廿四日、先生からの手紙に

 

(前略)その刻者が拙者の書風に慣れざる人なれば、結果はむしろ恐るべきにあらずやという懸念も禁じがたかりしところ、本日讃岐よりの御たよりによれば、貴方にて御自身御揮刀可被下(くださるべき)きよし申来り大安心仕(つかまつり)候。何分よろしく御願申上候。何卒御力によりてよき鐘をつくり得て後世に示したきものと存じ候

 

と云って来られた。私は精進して、しかも楽しんで彫刻し終って、拓本を御目にかけたところ、卅年十二月卅一日先生から

 

この度は拙筆鐘銘につきて久しく精刻の労を惜ませられず、めでたく御奏刀被下、墨本を拝見するに満足の至りにて、ありがたく奉存候。別に電文にても申上候へども表謝如此(謝をあらわすこと かくのごとくに)(下略)

 

のお言葉をいただいた。鐘の文様は岡山大学講師竹内清先生に依頼して、正面鐘座の上に五剣山を描き、上帯並に裏鐘座の上に飛雲をあしらい、裾には青海波を雄大に作図していただいた。

 

その後、岩沢氏を督励して鋳型を作り、去六月六日火入を行った。六月廿三日上京して中井僧正と共に新鋳の梵鐘を見た。私は戦後、各寺の梵鐘の銘文を書いて、鋳造完成して拝見すると何時も文字は台なしである。この岩沢の鐘の文字ほどに鋳造せられた鐘は全く無い。それは其筈である。鋳型は私が精魂を尽して彫刻したのだもの。

 

中井僧正と私は耳を澄して、鐘の音を聞いた。その音のなごやかなそして余韻の調子がまことによろしい。私は中井僧正に「良い音ですな」と云って安心とよろこびを語った。中井僧正も満足せられた。岩沢徹誠氏の苦心の甲斐があったというものだ。

私は鐘銘と文様の拓本をとった。拓本を熟視して、秋草道人の書風を銅版として遺すことの出来たことは、日本書道界のため慶賀すべきことであると思った。秋草道人もさぞ満足せられることであろう。

 

秋草道人は八栗寺の鐘銘を揮毫せられたころから健康を害されて病臥せられた。

昭和三十年十二月卅一日の手紙に

 

拙者老境に入り、近来別して意気地なく、日々疲労して何等為すところなく、病臥致し居り候へば八栗寺にまいりて、実物拝見のことは永遠にあきらめ候よりほかなしと存じ候

 

とあって、昭和三十一年十一月廿一日死去せられるまで、八栗寺鐘銘の歌以後約一年間一首の歌もなかった。

大和古寺を巡礼して詠まれた歌集「南京新唱」が先生の出世作であり、八栗寺鐘銘の歌を最後として寂滅せられたことはまことに感無量である。 (終り)

 

 

八栗寺梵鐘の文様

 

竹内 清

 

突然、松坂旭信師から、会津八一博士銘文の八栗寺梵鐘の波文模様を依頼された時、私としてはやり甲斐のある仕事なので喜んでお引受けしたのである。波模様については、かねて私も研究していたので多少の自信はあったが、秋草道人の筆を旭信師がまことに立派に彫り出され、それを手拓されたのを見せて貰った時、これは到底ありきたりの様式では調和しそうに無く、一度海を見て来ないことにはーと何かせき立てられ様な気持になったのをおぼえている。

 

もともと旅の好きでない私も、とも角四国へ行ってみようと思い立って、丁度大阪から来あわせていた家内の妹に家内それに子供も加えて楽な気持で連絡船にのって、波を充分眺め、写生し、写真にも撮り、また屋島から五剣山も写生しなどして、船の往復の間に大体の様式をまとめることが出来たのである。帰って三枚ばかり下描きを作ってみて、最初に波文と形式を正倉院鏡により乍らも、あの海景と五剣山の偉容に副わしむるよう、波文に奥行きをつけて距離を出すーつまり渦を丸でなく楕円にするという事で描きあげたようなわけである。

 

五剣山は思い切って塊りにして線描をさけたが、この文様が幸い秋草道人から別に文句も出なかったそうで、早速仕事にかかったように聞いている。実物をまだ拝見していないので鋳造されて効果がどんなに変化しているかも知れないがしかしそれにしても私の生涯の仕事の中で、こんな仕事をさせてもらった事を大変有難く思っている。 昭和三十二年六月記(岡山大学講師、二科会会員)

 

 

 

アズマイチゲ