毎年3月になると私にとって特別な日が9・10・11日と3日続く。

 

3月10日  東京大空襲の日  1945年

 

アメリカは周到に準備して10日の未明に木造家屋の密集する下町に大量の焼夷弾を落して町を焼き尽くした。一晩で民間人約10万人の犠牲者という。広島・長崎の原爆犠牲者に近い数字だ。ウクライナやガザの犠牲者をはるかに超す。

 

これから5か月、8月の敗戦までに東京の都心と周辺の町は無差別空襲のために焦土となり、多くの犠牲者を出した。

 

神田明神の近くで生まれ育った私は、たまたま東京にいなかったので地獄を体験しないで済んだが、思い出の詰まった家に再び帰ることはできなかった。

 

当時横川国民学校の教員だった井上有一は学校で九死に一生を得たが、後に血を吐くような思いで「噫横川国民学校」を書いた(写真)。井上有一(1916-85)は前衛書家としても知られている。

 

 

 

 

東京都心の西の郊外、畑と林と結核療養所・病院の多かった清瀬村(現清瀬市)に大空襲から一週間後、包帯でぐるぐる巻きになった被災者が木炭で動く軍用トラックにたくさん乗せられて病院に運ばれてきたが、破傷風などで半数以上が亡くなった。身寄り不明の33人の遺体は近くのお寺に土葬されたという。このようなことが各地であったのだろう。

 

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3月11日  東日本大震災・福島第一原発被災の日  2011年

 

私は東京に住んでいたので東北地方に行く機会はいろいろとあった。大学以来の親友が秋田や福島にいた。私の好きな彫刻家舟越保武や佐藤忠良は岩手・宮城県の出身。高村光太郎や柳田國男とも東北は縁が深い。私は大震災前の三陸鉄道には全線に乗っていた。太平洋沿岸の主な町や村はいくつも訪ねていた。

 

大震災は大きな衝撃だった。それに私自身も栃木県を走っていた電車で被災。上下左右に強烈に揺れた電車は運転不能となり栃木市の学校の体育館に一晩お世話になったのだった。

 

私の知っていた東北地方の太平洋沿岸の町や村は甚大な被害を受け、今では新しい町や村として再生し、新しい人のつながりができている。しかし被災から13年、今なお故郷に戻れない人がたくさんいる。

 

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3月9日 ?

 

この日は私の誕生日、私と家族にとって特別な日。私はもう老人という言葉に十分ふさわしい歳となってしまった。元気でいることに感謝。

 

 

 

 

こうやぼうき