“当尾の里の石の仏たち” で浄瑠璃寺周辺の石仏を訪ねたので、最後は浄瑠璃寺の紹介で締めくくろう。

 

 アシビ(馬酔木)が生垣のように連なる参道の突き当り、小さな門をくぐるとそこには別世界が広がる。大きな池を挟んで右手(西)には九体の阿弥陀如来像を安置する大きな横長の本堂(阿弥陀堂)が建ち、左手(東)の小高い所には優雅な三重塔が建っている。初層には薬師如来像が安置されている。いささか交通不便なところに位置するが四季それぞれに趣のある雰囲気で、訪ねる人が多い寺の一つだろう。

 

 浄瑠璃寺は九体寺(くたいじ)とも言うが、不思議な寺で、現在の本尊から言えば九体寺の方がいいと思うのだがなぜか浄瑠璃寺の方が一般的だ。これは薬師如来の浄瑠璃浄土(瑠璃光浄土)から来ているのだろうが、これにはこの寺の歴史が秘められているので少しみてみよう。

 

 有名寺院の草創の頃は不明なことが多いのでその辺は飛ばして、1047 永承 2年に本堂を建立したがその時の本尊は薬師如来像で現在三重塔に安置されている像がそれだと伝える。とすれば寺の名称が浄瑠璃寺でおかしくない。藤原道長・頼通の時代である。ところが60年後の1107 嘉承 2年に新本堂を建てて翌年開眼供養したのが現在の本堂と九体の阿弥陀如来像と伝え、さらに50年後の1157 保元 2年に本堂を現在地に移したと伝えている。従って新本堂以後は九体寺の方が寺の名としてはふさわしいと言える。さらに20年後の1178 治承 2年に京都から三重塔を移建したという。平氏の時代である。

 

 かくて現在の浄瑠璃寺の姿が出来上ったことになるが、それにしてもなぜ本尊が変ったのだろうか。平安時代後期から鎌倉時代には阿弥陀信仰が盛んになるのでその影響なのかもしれない。現在の本堂は、現存する唯一の九体阿弥陀堂で本来は三重塔と同じ檜皮葺(ひわだぶき)の屋根だったがなぜか江戸時代の初期に現在の本瓦葺になったそうだ。内部には中央に大きな来迎印の阿弥陀如来像、左右に各4体少し小さい定印の阿弥陀如来像が一列に並んでいる。どんな人も救われるという訳だろう。(建物も仏像も国宝)

 

 寺の歴史はこのくらいにして春と秋の境内の眺めを味わっていただきたい。所詮は旅人の束の間の撮影だから大したことはないが、もっと腰を据えて撮影したならば味わい深い写真が撮れたのではと思う。春は4月上旬、秋は11月下旬の撮影である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところで浄瑠璃寺と言うとすぐ思い出すのは堀辰雄の「大和路」にある「浄瑠璃寺の春」だが、そこには1943 昭和18年に夫人と訪ねた時のことが書かれている。その中には案内してくれた「ジャケット姿の少女」と夫人が寺の柿の木をめぐって話に興じている様子が描かれている。

 

 そこでまた思い出すのが會津八一のことで、最初の歌集『南京新唱』(1924年刊) に 「浄るりの名をなつかしみみゆきふる はるのやまべをひとりゆくなり」「かれわたる池のおもてのあしのまに かげうちひたしくるゝ塔かな」「毘沙門のふりしころものすそのうらに くれなゐもゆる宝相華かな」といった歌が収録されているので大正時代に浄瑠璃寺を訪ねているのが分かるが、さらに歌集『鹿鳴集』(1940年刊)の「観仏三昧」(1939年10月)にも浄瑠璃寺の歌があり、その中に「やまでらのほふしがむすめひとりゐて かきうるにはもいろづきにけり」「みだうなる九ぽんのひざにひとつづつ かきたてまつれははのみために」とやはり少女と柿がでてくる。詞書に「二十日奈良より歩して山城国浄瑠璃寺にいたる。寺僧はあたかも奈良に買物に行きしとて在らず。赤きジャケットを着たる少女一人留守をまもりてたまたま来るハイキングの人々に裏庭の柿をもぎて売り…」とあるので、この時の少女が 4年後に堀夫妻と会った少女と同じかなと思ったりする。いずれにしても今とは異なり、ゆっくりと時間が流れる時代ののんびりとした古寺のようすが伝わってくるように感じる話だ。

 

 

  関連記事 → 浄瑠璃寺の春