JR奈良駅の東北7km(直線距離)くらいで浄瑠璃寺や岩船寺のある里に着く。この辺りは当尾(とおの)といい、奈良から笠置を経て伊賀・伊勢へ行く古道が通っていた。やさしい起伏の里山はあちこちに花崗岩の山肌を見せており、鎌倉時代から南北朝の時代にかけていくつもの磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれ、石仏や石塔とともに特別な雰囲気をこの当尾の里に作り出している。

 

 堀辰雄がはじめて大和を訪れたのは1937 昭和12年の晩春だそうだが、その後、大和の古い村を背景にした 「イディル(idyll)風なもの(牧歌的な風景)」、「物静かな、小ぢんまりとした環境に生きている素朴な人達の、何物にも煩わせられない、自足した生活だけ」(「十月」)を描いた作品の構想を得るために、奈良に 3度目の滞在をしたのは1941年秋のことである。夫人に宛てた手紙の形をとる作品 「十月」 を読むと、当時の奈良の風情、古い寺の様子、黙々と法隆寺金堂壁画の模写に携わる人たちや焼失する前の壁画の様子が伝わってくる。そして夫人と一緒に奈良の宿から歩いて浄瑠璃寺を訪れたのは1943 昭和18年の春で、「浄瑠璃寺の春」にその時の様子が書かれている。

 

 寺の小さな門をくぐると、池をはさんで三重塔と横長の九体阿弥陀堂が作り出す浄土の世界が広がる。柿の木の自慢などをする屈託のない寺の娘と夫人とのおしゃべり、それを聞きながら阿弥陀像を拝して池を巡る堀辰雄、寺の周辺には桃や桜や菜の花が咲き、なぜか七面鳥の鳴き声が何回も聞こえてくる。そして門の傍らには彼の大好きな馬酔木(あしび)の花が咲いていた。

   

「その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、入りかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」 と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の潅木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」 妻もその潅木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊を掌のうえに載せたりしてみていた。」

 

 この作品が描く浄瑠璃寺の情景は、まさに堀辰雄がいう 「イディル(idyll)風」 な世界ではないかと私には思われた。しかし、彼の 『大和路』 に収められた一連の作品を読むと、悲劇的な戦争にのめり込んでいった当時の日本の状況をまったく感じさせない世界がそこに広がっていることに一種不思議な気分になった。

 

  

 

 家の近所を散歩していて馬酔木の花を見た時、ふと浄瑠璃寺へ行こうと思った。秋に訪ねたことはあったが春の様子は見たことがなかったし、その近くの岩船寺まで歩いてみたくもあった。今でこそ浄瑠璃寺へは奈良からバスで行けるが、堀辰雄は奈良の宿から片道2時間も歩かなければならなかったと書いている。私が春に訪ねたころもまだ交通の便はよくなかった。

 

 3月下旬のある日JR加茂駅に降りたが、予想通りバスの便が悪いので奈良行のバスに乗って浄瑠璃寺口から歩くことにした。半分は覚悟していたので、これもまたよしと人通りの少ない田舎道を歩き始めた。道端に咲くオオイヌノフグリのブルーの花に春を感じながら登り加減の道を行くと古い石仏や墓石を一箇所に集めたところを二つ、三つと通り過ぎ、歴史の古い里を訪ねている感じが深まってくる。

 

 ひと汗かいた私は一休みと浄瑠璃寺の門前からは少し離れた蕎麦処吉祥庵で冷たいおろし蕎麦を食べたが、店の主人の本職は陶芸で庭先には窯が築かれている。僧侶を思わせる風貌の細面の主人がぽつりぽつりと店に飾ってある作品について語ってくれたが、信楽(しがらき)の土の茶陶はどれも重厚ななかに枯淡な味わいがあり、つやのある黒い肌に焼きあがる信楽の珍しい土で焼いた器が吉祥窯の特色を示すようであった。

 

 寺の門前に一列に植えられた人の背丈ほどの馬酔木は見事に満開で白い小さな花の房を重たげに垂らしていたが、その光景には手入れの行き届いた生垣と同じように作られた自然の趣を感じてしまう。

 

 私たちが歴史の古い寺を訪ねた時に感じるあの心の安らぎは、堀辰雄が指摘するように「自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融け込んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。」 そのような 「廃墟の云いしれぬ魅力」(「浄瑠璃寺の春」)によるのではないだろうか。過剰な人の手は自然の美しさを損なうものでしかないであろう。境内に花の咲く草木をたくさん植え込んでいる岩船寺でも同じようなことを感じた。

 

 しかし、門をくぐればそこには別の世界が広がる。池をはさんで左に建つ三重塔の薬師如来に象徴される浄瑠璃浄土、右に建つ現存する唯一の九体阿弥陀堂の阿弥陀如来の象徴する極楽浄土、こうした寺観が整うのは平氏が滅亡した12世紀末のようであるが、ここには古代・中世の人々の欣求(ごんぐ)浄土の思いが今に伝えられている。幸い参拝者が大変に少ないので、淡い光線の中で静かに阿弥陀像を拝することが出来た。ひときわ大きい中央の阿弥陀如来像は来迎印(らいごういん)だが、左右に並ぶ阿弥陀如来像はいずれも定印(じょういん)を結び、その表情は微妙に異なっている。ここにこうして座る諸像は800年余の間にどれほどの人々に拝まれ、その心の中の思いをうけとめてこられたのだろうか。

 静謐(せいひつ)な気の漂う境内には今が盛りのサンシュユの黄が鮮やかだった。

 

 

 

  浄瑠璃寺から岩船寺への道は里山の間を縫うように続いている。山かげの梅の木がまだ花を残す古い民家の脇を通り抜けると道は谷戸(やと)に沿って緩やかに登って行く。山を覆う木々が芽吹き始めて、いかにも春らしいやわらかな暖かい雰囲気を醸し出している。段状の谷戸田は耕作しなくなって久しいのか草に覆われて自然に帰ろうとしているが、山裾に積まれた薪の山にわずかに人の営みを感じることが出来た。

 

 当尾の石仏のなかでよく知られている磨崖仏 「わらい仏」 は、この明るい谷戸を見下ろす場所に全体が左に傾いて微笑んでいた。1299 永仁 7年に彫られてから700年の間にどのような巨大な力がこの石の仏さんに働いたのだろうか。阿弥陀如来は来迎印ではないが、左に合掌した勢至菩薩が、右には蓮台を持った観音菩薩が控えているので来迎の阿弥陀三尊と考えられる。仏さんの前では赤いカーディガンの若い女性がスケッチに余念がなかった。

 

 ここに来るまでにもいくつかの石の仏さんにお会いしたが、中には阿弥陀像の右に灯籠を線彫りし火袋の部分だけを掘りくぼめて実際に灯明をともせるようにした、石工の秀逸なセンスをうかがわせるものもあった。わらい仏からさらに登って行くと線彫りの大きな弥勒菩薩や巨岩の高い位置に彫られた三体地蔵菩薩があり、程なく岩船寺に到着する。ここまで約60分の道のりだが、この当尾の里歩きは、私には忙しい日常で忘れていたなにか大切なものを思い出させてくれた貴重な時間であった。

 

 岩船寺口のバス停までさらに20分ほど歩いて奈良の町に着いた頃にはもう日は傾いていた。JR天王寺駅に出て近くの居酒屋(明治屋)で湯豆腐を肴に一杯やりながら一日の疲れを癒したのも遠い思い出の一つである。