うまやどの みこのみことは いつのよの いかなるひとか あふがざらめや  會津朔 敬題

 

 歌集 『南京新唱』 中の 「聖徳太子遠忌」、歌集 『鹿鳴集』 中の 「御遠忌近き頃法隆寺村にいたりて」 と詞書のある4首中の1首である。

 この歌について吉野秀雄は、「この歌、一本調子にひたぶる太子をあがめ奉らうとしたもので、溢れいづる感懐、よく声調化されて些かの弛緩もない」 と書き (『鹿鳴集歌解』)、山崎馨は、「聖徳太子に寄せる道人の敬仰が、そのまま形象化した作品である」 と言っている (『會津八一の歌』)

 聖徳太子千三百年忌が法隆寺で行なわれたのは1921 大正10年4月11日なので、この歌はその少し前の作になる。しかしこの歌碑は法隆寺ではなくて同じく太子に縁の深い大阪の四天王寺に建っている。

 四天王寺は法隆寺と並ぶ古い歴史をもった寺だが、何度もの災害にもかかわらず不死鳥(フェニックス)のように甦って今日に至っている。現在の伽藍も戦災で焼失した後に創建時の寺址に再建され、今も多くの人々の太子信仰・阿弥陀信仰に支えられて栄えている。

 歌碑は聖徳太子を祀る聖霊院(写真)の静かな庭の楠の陰にある。碑陰には、「四天王寺聖霊院絵堂/聖徳太子御絵伝障壁画奉納記念/昭和五十八年九月十日/四天王寺管長 出口常順」 とある。會津八一とは縁の深かった画家杉本健吉による障壁画の完成を記念して歌碑が建てられたことが分かる。

 この歌碑は写真に見るように大小の石に囲まれるようにして建ち、まことに重厚な存在感を示している。歌碑としては珍しい設計だろう。周囲の雰囲気も大変良いのだが、残念なのは自由に歌碑に近づけないことだ。聖霊院右手のこの庭は立入り禁止となっているので寺の了解を得なければ入れない。私は聖霊院の外縁から歌碑を遠く眺めるしかないのかとがっかりしていたところ、ちょうど寺の関係者が見えたのでお願いして庭に下りることが出来た。近くにはこの歌碑の案内もないのでその存在はほとんど知られていないのではないだろうか。この堂々とした歌碑を多くの人に知ってもらうために、庭への出入りの自由と案内が欲しいところだ。 

 

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