しぐれのあめいたくなふりそこんだうの はしらのまそほかべにながれむ 秋艸道人

 

 歌集 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 中の詞書に 「海龍王寺にて」 とある2首の中の1首。

 

 「まそほ」 は建物に使う赤い顔料で、『渾斎随筆』 の 「自作小註」 に、「この寺の西金堂の古びた白壁に、柱の色が、赤くにじんでiゐるのを、実際に見て詠んだのである」 とある。

 

 海龍王寺は、光明皇后によって731年に建立され、皇后ゆかりの法華寺のすぐ近くにある。唐から帰った僧玄昉がこの寺にいた当時は伽藍が整えられていたがその後衰微し、鎌倉時代の後期に再興されたが明治維新の廃仏毀釈で荒廃したという。山門と築地塀は室町時代のものという(写真)

 

 會津八一のもう1首が大正のころの寺の様子を想像させてくれよう。

 

  ふるてらのはしらにのこるたびびとの なをよみゆけどしるひともなし

 

 現在は整備や修復のすすめられた境内に奈良時代の小さな西金堂が建ち(写真)、中には奈良時代の五重小塔が置かれている(国宝)。江戸時代に伽藍の修復が行われたが、現在の中金堂は建物に塗られた朱色が剥げており、八一がかつて西金堂に見た様子を感じさせてくれる(写真)

 

 歌碑は高さ 145cm、西金堂の左手に建っているが、最初は境内の別の場所にあったという。1970 昭和45年にある女性が秋篠寺・般若寺の歌碑とともに匿名で建立したというが、すでに半世紀になる今日そろそろ当時の事情を明らかにしてもよいのではないだろうか。そうでないと永遠に知られないままになってしまうであろう。

 

(會津八一歌碑巡礼 奈良14)

 

  

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追 記 * 秋篠寺・海龍王寺・般若寺の歌碑は匿名の同一人物によって建てられたが、このまま建立者不明で歴史に埋もれてしまうのは残念だと書いてきた。ところがこの3基を建てた大石石材の話により、歌碑は東京の三共製薬社長夫人鈴木ミツ(故人)によるものだという事が判明した。(海龍王寺歌碑の解説、喜嶋奈津代、「秋艸会報」 No.51 2021年4月による) 2022年3月