わぎもこがきぬかけやなぎみまくほり いけをめぐりぬかささしながら 秋艸道人
歌集 『南京新唱』 および 『鹿鳴集』 中の「南京新唱」 のうちの1首。「猿沢池にて」 と詞書にある。
この歌については 『自註鹿鳴集』 の註および、『渾齋随筆』の 「衣掛柳」 に詳しい。後者では、奈良時代に帝の寵愛が薄れたのを悲しんだ釆女(うねめ)が柳に衣を掛けて猿沢池に身を投じたという伝説を考証してその矛盾を指摘しながらも、「私は今でも、あの池の近くを通る時、いつも新しい興味で此の話を思ひ出す。人物や時代の上に、如何ほどの無理があっても、代々の人の心に宿り、口に伝へられて来たものだけに、その奥底には、深く人間の本性に本づくものがあって、そこに感触するのであらう」と述べている。八一の歌もこうした思いから生まれたものであろう。
また、「私が初めて奈良へ行ったのは、明治四十一年の夏で、この歌は、その時のものの一つである。私はまだ二十八歳の青年で、宿は東大寺の転害門に近い対山楼といふのであった」とも書いている。この歌碑はそれから90年目の1998 平成10年7月に建てられた。
歌碑は、興福寺から大きな階段を降りたところに池のほうを向いて建っている。少し離れて池のほうからこの歌碑を眺めると、興福寺の五重塔を背景にしてなかなか良い場所のように思える。
やや大きめの黒御影石に枠を設けずに右にたっぷりと余白を取って歌を彫った歌碑は、會津八一の歌碑としては異色だが、そのデザイン感覚は素晴らしい。文字の彫りも八一の書のちから、流れをよく表現していると感じた。奈良セントラルライオンズクラブが結成20周年を記念して建てたそうだが詳しい事情は分からない。碑の裏面には 「会津八一歌碑 わぎもこが…」 と歌の読みが記されている。
池のほとりには釆女神社(写真下)があるが、社殿が池に背を向けているのは、釆女を悼んで一夜で社殿の向きが変わってしまったためと伝えられている。例大祭の仲秋の名月の夜には、2隻の船が雅楽の調べとともに池を巡るそうだ。
この碑が建てられてもう20年を越えるが、写真を見れば分かるように歌碑の周囲は土が剥き出しである。しかも、よく見ると前や後にマンホールの蓋などがいくつもあり(碑の後の低い垣はその目隠し)、すぐ傍には道路標識も建っている。また碑が斜面に建っているので、碑の裏面は地表と殆ど接しているために土が跳ねて著しく汚れている。
この歌碑は、近くで見るとまことに風情のない場所、八一の歌碑にふさわしくない場所に建っているとしか私には思えない。この場所が選ばれたのにはそれなりの事情があるのだろうが、もし許されるならば数十メートル西(左手) に移せば、松の木が生え緑の下草もある格好の場所があるのにと思うのだがどうだろうか。