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木 の 葉 猿 窯 

 

さるの子のつぶらまなこにさすすみの ふであやまちそ土師のともがら 木葉猿 秋艸道人 

 

 歌集 『自註 鹿鳴集』 の 「放浪唫草」 8首中の一首で、「肥後国木葉村に木葉神社あり。社頭に木葉猿といふものを売る素朴また愛すべし。われ旅中にこの猿を作る家これを売る店のさまを見むとて半日をこの村に送りしことあり」と詞書にある。土師は 「はし」 で、粘土で猿を作る人、歌集では 「はし」、「さるの子」 は 「さるのこ」 となっている。「ともがら」 は仲間の人々。

 

 會津八一が大阪から船で九州への旅に出たのは大正10 (1921) 11月で、大分県中津の大雅堂・別府温泉・臼杵地方の石仏群・耶馬溪・太宰府・福岡・日奈久温泉と訪ね歩いたときに木葉村に立寄っている。その後人吉・長崎を訪ねて門司から再び船で年末に奈良に戻りそこで年を越している。

 

 心身の疲労が重なっていた八一だったが、旅を楽しみ市島春城をはじめ知人にしきりに葉書を書いては旅での見聞の様子や八一らしい感想を述べている。

 

 1216日の春城宛の葉書に 「只今木ノ葉駅に下車して木葉神社を観たる後、土猿の製造所をしらべたる上、八代に向ふところにて候」 とある。翌日の日奈久温泉からの葉書を見ても、八一はかねて郷土玩具に深い関心を寄せていたことが分かる。木葉猿の窯元を熱心に見学して8首もの歌が歌集に収録されているのも頷けよう。(8首以外の歌も葉書には書かれていた。)

 

 歌碑の歌の書いてある春城宛の葉書で、木葉猿の彩色がフランスの印象派絵画に似ていると称賛した内田魯庵について、それは「枝葉の事に属」 すとし、「原始的の木葉猿はかへって紀州の瓦猿に似て稍々小なるのみにて候。現今もそれに最も近き形態を存するものは、一個三銭にて最も軽視せられ居り候。形態論、農民芸術論、宗教論、一個三銭にてもなかなか馬鹿になりがたく候」と書いている。よく知られた彩色のある猿よりも素焼きのままの古い猿に本来の姿を見ようとする八一の学究的な姿を知ることが出来よう。

 

 私が木葉猿の窯元を訪ねたのは青葉の清々しい5月の末であった。突然の慌しい訪問であったが幸い窯の主人である永田禮三さんにお会いできて親しくお話を伺うことが出来たのは幸いであった。會津八一がここを訪ねたのは禮三さんの祖父がお元気だったころで、その時の彩色の猿に近いのはこれでしょうと教えてくれたのが写真の猿である。

 

 建碑の事情については禮三さんご自身が書いておられる(『會津八一のいしぶみ』新潟日報事業社)。窯元を訪ねてきた女子大生に八一の歌が 『自註 鹿鳴集』 に載っていることを教えられたことがきっかけで歌碑を建てようと思ったこと、新潟の會津八一記念館にいろいろと相談して歌碑が完成したことなどである。歌碑の石は、熊本県産の安山岩(荒尾石) ということだが、ほぼ等身大、厚みのある堂々とした石で庭の一角、窯のすぐ近くに建っている。碑蔭には 「木葉猿誕生壱千参百余年記念 平成八年十月吉日建之 筆、建主永田禮三 石工 真原則敏」 とあった。また、すぐ傍にはこの歌碑についての銅製の説明板 (写真) と木葉猿についての説明板が建っている。永田禮三さんの祖先及び會津八一にたいする熱い思いが伝わってくる立派な歌碑と説明板で、これを個人の努力で建てられたことに敬意を表したい。

 

 なお、歌碑の歌の原稿となったと思われる書が 『會津八一とゆかりの地』(和光慧 二玄社) に載っている。もしそうであるならば、歌碑と原稿に若干の相違があるのが気になる。また、歌碑の歌は歌集 『鹿鳴集』 収録の5首にはなくて 『自註鹿鳴集』 収録の8首に初めて収録された歌である。會津八一の歌集は、収録歌、表現に異同があるので注意が必要である。

  私がこの歌碑を訪ねたのは熊本地震の前であるが、地震によって窯元をはじめ歌碑にも大きな被害のなかったことを願っています。


 
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