新 薬 師 寺


 
ちかづきてあふぎみれどもみほとけの みそなはすともあらぬさびしさ  秋艸道人

 歌集『鹿鳴集』の「南京新唱」にある「香薬師を拝して」2首の中の1首。歌集『南京新唱』では「香薬師」とあり、「あふぎ」が「仰ぎ」となっている。

 新薬師寺は東大寺の南東、柳生に通じる滝坂道の入口近くに位置する古寺で、聖武天皇の病気快癒を願って光明皇后が創建したと伝えている。当時は 7体の薬師仏を祀る大きな金堂を中心にした立派な伽藍だったが、落雷や台風による被害で衰微した。2008年に近くの奈良教育大敷地内の発掘によって金堂とみられる大型建物の跡が発見された。現在の本堂は残った奈良時代のお堂を転用したものという(国宝)。本尊の薬師如来像は平安初期の作、十二神将像は奈良時代の塑像で近くの寺から移されたと伝えている。伐折羅大将像(會津八一の頃には迷企羅大将)が有名である。

 この歌の「みほとけ」は高さ 70cm ほどの白鳳仏香薬師如来立像で、本堂左手の小さなお堂に祀られていた。やや高い位置にあったので「あふぎみれども」と詠んだと八一が書いている。もう 1首の「みほとけのうつらまなこにいにしへの やまとくにばらかすみてあるらし」の「うつらまなこ」について、「何所を見るともなく、何を思ふともなく、うつら、うつらとしたる目つき、これこの像の最も著しき特色なり」と自註している。この薬師像の印象に大和の古寺・古仏によせる會津八一の深い思いが重ねられているのであろう。

 「みそなはす」は「みてくださる」といった意味だから、この魅力的な香薬師像を拝して深く思いを寄せても、みほとけに包みこまれる思いを感じられない寂しさ、心象風景を読みとることが出来よう。しかし、八一はこの仏像が好きだった。「歌材の仏像」という文で、「なるほど仏さんがあひてになってくれないといふ淋しみは、まさしく私の気持であるが、それにしてもかうした感じは、あの像を見たものならば、殆んど誰もが、身にしみて覚えがある筈」(『渾齋随筆』) と書いている。

 この歌碑は會津八一にとって初めてのもので、1942(昭和17)年 4月に香薬師堂の入口に建てられた。碑陰には「嶋中雄作建之」とある。嶋中は中央公論社元社長である。ほぼ等身大の碑には大きな文字で「ちかづきて…」と彫られているが、碑の形状や石材が普通の石碑に類似しているので歌碑としてはやや平凡な印象を受ける。


 しかし、「石に彫るからには、保存さへよければ、優に千年あまりの後までも伝はる」(「私の歌碑」『続渾齋随筆』)と考えていた八一は慎重に歌碑の原稿を書き、その彫りにこだわった。今も残る原稿には、「文字の筆意及行間のあきは總て原稿の通り厳守し忠実に彫刻せられたし」というゴム印が5ヶ所に押されているという。( 『會津八一の歌碑』 早稲田大学文学碑と拓本の会)

 初めての歌碑の建立は會津八一にとって大きな出来事だった。歌集『山光集』(改訂再版 1946年 7月、初版 1944年 9月) には「歌碑 昭和十七年四月」という詞書でその思いが詠まれている(8首)

   いしきりののみのひびきのいくひありて いしにいりけむあはれわがうた
   いしぶみにきざめるうたはみほとけの にはにはべりてのちのよもみむ
 

 しかし、4月の除幕式に体調を崩して出席できなかった八一は、『山光集』に歌碑の拓本の写真を挿入して「たまたま寺僧の拓して送れる墨本を草廬の壁上にかかげしめわづかにその状を想像して幽悶を慰むるのみ。いよいよ感応の易からざるをさとれり」と書いている。


 ところが、歌碑が出来た翌年の 3月には香薬師像が3度目の盗難にあってしまった。八一の受けた衝撃は大きく、『山光集』には「香薬師 昭和十八年三月」という詞書でその悲しみと再会を願う思いが詠まれているが(5首)、仏像は再び現れることはなく今日に至っている。

   みほとけはいまさずなりてふるあめに わがいしぶみのぬれたつらしも
   いでましてふたたびかへりいませりし みてらのかどにわれたちまたむ


 (現在は造られていた石膏型と写真で復原した香薬師像が本堂に祀られている。)
 

(會津八一歌碑巡礼 奈良 1)



  
 

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