かねて念願の北陸自動車道の杉津パーキング(上り線)で休憩した。昔の杉津駅からの眺めが人々を魅了したことは伝説的であり、今なお語り継がれている。そしてこのパーキングは昔の杉津駅の場所に造られていたからである。

 パーキングの建物の中に「杉津PA今昔」と題して写真と簡単な説明を書いた紙がいくつか貼られていた。その一枚「敦賀湾の眺望」には次のように書いてあった。

 「「杉津パーキングエリア」から望む敦賀湾の景色は、鉄道時代から訪れる人々を魅了してきました。鉄道唱歌 北陸編の中に「海のながめのたぐいなき 杉津をいでてトンネルに 入ればあやしいつのまに 日はくれはてて暗(やみ)なるぞ」と歌われる程の景勝です。明治42年皇太子時代の大正天皇が当地を訪れた際、杉津駅からの眺望のあまりの美しさに見惚れた為に御乗用列車の発車を遅らせたという逸話が、今も語り継がれております。」

 私はそんな昔の杉津駅からの眺めをみたくて海沿いの集落から急傾斜の道を登ってこのパーキングの近くまで来たことがあった。その後関川夏央の『汽車旅放浪記』を読んでますますこのパーキングからの敦賀湾の眺めを一度味わってみたいと思っていた。
 

   
 
 
 北陸自動車道は、米原の方に向かう上り線が昔の杉津駅の位置に、下り線はもっと高い所にパーキングが造られている。写真の建物の前の一段低いところが駐車場で、高速道はさらにその下の崖の上を走っている。

 昔の駅の写真と見比べてみると、どうやらパーキングの建物がある辺りに昔は駅舎があったようである。昔の線路跡は現在自動車道となっていてこの建物の後を走っているので、今の駐車場や高速道はどうやら昔の駅の前の斜面を削って造ったらしいことが分かった。

 早速駐車場の端まで行って敦賀湾を眺めたが近くの樹木が邪魔をしてほとんど海を見ることも、斜面を見ることも出来なかった。ここより前には高速道があるから行けない。少し高い建物の位置からの眺めも同じだ。前に「杉津駅のこと」で「昔の通りとはいかないがほぼ同じような景色を楽しむことが出来る」と書いたのは、とんでもない間違いだと分かって恥ずかしくなった。眺めがよいという点では、一段と高いところにある下り線のパーキングの方がよいことも分かった。
 


 昔の杉津駅についてもう少し調べてみよう。『日本鉄道旅行地図帳』(北信越 新潮社 2008)の「廃線鉄道地図」をみると、敦賀駅を出た列車は深山信号所・新保駅・葉原信号所を経て杉津駅に到着する。ここまでの線路は海岸線からは遠く、しかもどの駅も信号所もスイッチバックとなっている。険しい山地を登って行く列車の姿が想像できる。SLの時代には乗客はトンネルで煤に悩まされたことだろう。関川夏央は先の本で次のように書いている。

「二五パーミルの勾配を登るため、この区間は蒸気の重連、または列車後部に補機をつけて押した。杉津駅は、牧歌的風景と「働く機関車」との劇的な対比を好む鉄道ファンの撮影適地として知られていた。」        

 トンネルを出るとすぐにある杉津駅に着いて乗客もSLもホッとしたことだろう。高い位置から敦賀湾を見下すことの出来た唯一の駅だったのではないだろうか。列車は杉津駅を出るとすぐにまたトンネルで、右にカーブしながらスイッチバックの山中信号所を通り大桐駅を経て今庄駅に着く。ここで今の北陸本線に合流する。

 1932(昭和 7)年の地形図をみると駅から海岸までの緩傾斜地は棚田と桑畑で、小さな岬を挟んで敦賀寄りに杉津の集落、反対側に別の集落がある。集落から駅までは石段のある細い道が一直線に通じていた。当時杉津の海岸には海水浴場があり、この駅が人々で賑わう季節があったようだ。
 


 杉津パーキングまで足を運んで景色を眺めて思ったのだが、深く切れ込んだ湾なので対岸が近くに見える敦賀湾の眺めは、そんなに珍しいものとはいえない。しかし、ここからの眺めが人々をひきつけてやまなかったのは、駅からの斜面と海との一体となった眺めのすばらしさにあったのではないだろうか。

 エッセイ「風の盆」で紹介した柳田國男の「越前の杉津の駅頭から、海に臨んだ緩傾斜を見おろした眺めなどは、汽車がほんのもう一分だけ、長く止まって居てくれたらと思はぬ者は無い」(「旅人の為に」)といった昭和の初めの感想こそがポイントなのだろう。
 
 辞書によると「幻滅」とは「幻想からさめること。美しく心に描いていたことが、現実には幻に過ぎないと悟らされること」とある。私が昔の杉津駅からの眺めに懐いていた思いは幻想であり、杉津パーキングに立ち寄った結果それはまさに幻滅だとはっきり知ったのだった。
 
   関連記事 → 杉 津 駅 の こ と