高山駅を出て富山に向かう列車は、古川を過ぎるとやがて山あいを進むようになる。道路と鉄道が寄添うように川の流れに応じて右に左にと曲って車窓風景の変化を楽しませてくれながら乗客を岐阜県から富山県へと運んでいく。この山あいにも駅はいくつかあるが人の生活の気配はあまり感じられない。

  「山の中では古い往還の白い一筋に沿うて、静かに国境の山を越えて行く因美線や飛越線、殊に後者は風景を味はせる為に、路線を斯う取ったかと思ふ個所が多い。花や紅葉の頃にこの線の展望を写して置けば、趣向は立 てなくとも其まゝが絵巻になると思った。」 と柳田國男が昭和のはじめに書いた頃とあまり変わりない景色をおそらく今私は見ているのだろうと思いながら列車に揺られていた(「旅人の為に」『豆の葉と太陽』所収)
 
 車窓から見下ろす川の名が神通川となってしばらくすると富山平野の南の端に出る。 久しぶりの平地をさらにすこし西に進むと越中八尾(やつお)駅に着いた。駅から眺める八尾の町は高台に向かう道に沿って家が並んでいる。私は 「おわら風の盆」 で知られるこの町にいつか行ってみたいと思ってから久しかった。
 

 
 風の盆は二百十日にあたる9月はじめの3日間と決まっているが雨が降ると屋外での催しは中止になる。台風の季節にあたるので天気を心配していたが、念願がかなって私の出かけた2日は前夜の雨もあがりすばらしい好天に恵まれた。風の盆に寄せる八尾の人びとや観光客の思いが通じたようだった。 
 
 井田川右岸の高台に広がる八尾の町の中心部には、あたりが暗くなり始める7時過 ぎにはもうたくさんの人が行き来していた。店には明りがともり、道の左右にはぼんぼりが並んで華やいだ気分に満ちている。町は西のはずれに西新町 ・ 上新町と続く通りが二本あり、その南に東新町 ・ 諏訪町を貫く通りがある。この東には西町と東町の二本の通りが続き、今町 ・ 鏡町と隣り合わせている。

 それぞれの町が思い思いに町流しをしているので、それを見ようと観光客は歩き回るのだが不思議なことに思うようにはめぐり会えない。小学校をはじめ何か所ものステージへの出演と重なるためらしいが、それでも町の中で揃いの浴衣に編笠を背中にした娘さんの姿を間近に見たりすると 「ああ風の盆に来たんだな」 といった気分になる。
 
 

    
 
 もっとも趣のある通りといわれる諏訪町と坂の上の東新町との町境に出たのは10 時近かっただろうか。夜の闇に包まれた町に道の左右のぼんぼりの明りが二本の線となって緩やかに坂を下ってはるかかなたに消えていく。よく見るとまだだいぶ遠いが町流しの踊りの列が確かにこちらに向かっているようだった。道の端には座り込んで踊りを待っている人がすでにたくさんいた。私も待つことにした。

 とにかく静かだった。唄声も三味線も胡弓もここまで聞こえては来ない。まるで無声映画を見るかのように少しずつ少しずつ坂を上って踊りの列が近づいてくる。男の踊り手は黒のはっぴ姿に編笠をかぶり、女性は桃色の浴衣に黒帯を締めて編笠を深くかぶり、少し前に進むと今度は家並みのほうを向いて踊っている。どうやら町内の一 軒一軒に挨拶するかのように丁寧にゆっくりと踊りは進んで来る。 
 
  紺色の浴衣を着た唄い手 ・ 囃子方に太鼓 ・ 三味線 ・ 胡弓の地方(じかた)は踊りの後からついてくるが、だいぶ近くならないとあの哀調を帯びた胡弓の音色も三味線も唄も聞こえてはこない。都会とは違う時間の流れの中で繰り広げられる幻想の世界としかいいようがない美しい情景が今目の前に静かに展開していた。私は諏訪町最後の家の玄関前にしゃがんでじっと踊りの列を待ち続けた。
 
 踊りの列がやっと町境に着いた。いよいよ私が待つ家の前での踊りである。踊りの列が一休みしている間に玄関前の見物客が整理されてその家の家族が椅子を出して座った。主人がお盆に載せたご祝儀を渡す。町流しの最後の踊りはどうやらこれまでとは違うようだ。玄関前から左右斜めに広がる線上を最初は踊り手二人ずつの勇壮な男踊り、その次は踊り手がやはり二人ずつの優美な女踊りとなる。最後は男女八人が複雑に行き交う踊りを見せて終った。たまたま隣にいたこの家の息子さんが時々 「これは稲を刈るしぐさ」 などと教えてくれた。
 

 

    
 
 
 地面に踏ん張る足の先、すっと伸びる手の先、からだの線が要所要所で美しく決まりながらも踊りは流れるように進んでいく。 高く繊細な唄声に三味線 ・ 太鼓が和し、胡弓の調べが情緒たっぷりにからんでいく。私のすぐ目の前に迫ってくる踊り手の息遣いが、編笠の中の陶酔した表情が、今もありありと思い出される。この日のために一年間練習を重ねてきた人たちの苦しみや喜びは到底私には想像することもできないが、この目で見た諏訪町の町流しの情景は深く心に刻み込まれた。

 ふと時計を見るともう11時に近かった。町のあちこちの辻では輪踊りが始まっている。道の中ほどに造られた小さな舞台の上で踊る一組の踊り手を中に浴衣姿の町の人たちが輪になって踊っている。元若者 ・ 昔若者といった年恰好の人が多いが、おおかたの観光客が姿を消すこれから深夜にかけて町の人たちは年に一度の風の盆を心ゆ くまで楽しむのだろう。
 

 
 風の盆には20万人を超す人出があるという。踊りを出す11町内の人口は約 5000人だそうだから町の人口の40倍からの人が押しかけたことになる。旅行者とは勝手なもので自分も混雑の一因でありながらもっと町が静かだったらと願ったりする。しかし見に来てくれる人がたくさんいるから町の人たちも一所懸命になり、その結果風の盆が進化してきた一面もあるのではないだろうか。

 この風の盆は300年くらいの歴史をもっているそうだが、決して昔のままにうけつがれてきたのではなく、大正から昭和の初期に大きな変革が行なわれて今日のようになったという。芸者の唄と踊りだったのが町の人も参加するようになり、古くからの踊りに手が入れられて豊年踊りとなり、さらに男踊り、女踊りが創作された。楽器に胡弓が加わったのもこの時期という。このように時代とともに進化してきたのだがそれにしても風の盆はまだ地味な存在だった。

 ところが、石川さゆりさんの 『風の盆恋歌』(なかにし礼作詞、三木たかし作曲) が大 ヒット曲となって紅白の最後を飾ったのが1989年、その翌年から人がどっと押 し寄せるようになったという。多いときには40万人が押しかけたというが、マスメ ディアの威力はすごいものとあらためて感心する。

 しかしこの歌が誕生したきっかけは髙橋治さんの小説 『風の盆恋歌』(1985年刊)で、なかにしさんを風の盆に案内したのも髙橋さんだった。 「ぼんぼりが連なる諏訪町の道筋を町流しがゆっくりと上ってくる光景を初めて見た時、その美しさに私は言葉もなかった。」 「しかし、すぐには書 けなかった。私の中に歌が醸成されるまでには至っていなかったからである。以来、毎年九月、四回通った。」 となかにしさんは書いている(『朝日新聞』 2004年9月22日)

 髙橋さんの小説は、風の盆で華やぐ八尾を舞台に青春を共有する中年の男女の悲恋 を描いたものだが、小説も終りに近い頃八尾から二人は車で山道を越えて北陸本線杉津(すいづ)駅の跡に来た。
 
「じゃ、あれが、スイッチ・バックで今庄にのぼって行った、あの鼻の穴が真黒になるトンネルなの」
「線路のあとをそのまま道にしたらしい。トンネルを五つ六つ抜けると、今でも嘘のように簡単に今庄に出られる」
「どうして御存知なの、そんなこと」
「君と同じさ。北陸トンネルが出来てから溜息が出るほど美しかった杉津駅からの眺めがなくなった。それで、ある時敦賀でレンタカーを借りて探して見たんだよ」
「そうなの。……私も杉津に列車がとまる度に、この世にこんなに美しい眺めがあるものかと思って見とれたものだわ。あなたもそうだったのね」
「ああ、多分、君も覚えてるんじゃないかと思っていたよ。いつか、連れて来て、 ここから海を眺めるような気もしていたんだ」
 
 二人は一切を捨ててこの杉津駅の跡地の辺りに小さな家を構えて住もうかと語り合う。しかしそれが実現する前、風の盆のさなかに二人は八尾で思わぬ最期を迎える。 
 
   私が風の盆にどうしても行ってみたいと思ったのはこの小説を読んでからだった。 そして杉津駅跡からの眺めをこの目で見なければどうしても気持に区切りがつかないと思った。
 

 
 ある年の10月末、大阪で佐伯祐三の展覧会を見たあと私は敦賀に足を伸ばした。かつては敦賀 ・ 今庄間はトンネルとスイッチバックが続く北陸本線屈指の山越えの難所として知られていたが、1962年 6月の北陸トンネルの開通で事情は一変した。山越えのこれまでの路線は廃止となって道路に転用されることになり杉津駅はなく なってしまったのである。

 敦賀湾の東側を海沿いに北に進むと20分ちょっとでバスは杉津に着いた。駅の跡へは国道を横切って小学校の脇を通る県道杉津 ・ 今庄線を登るわけだが、はるか高いと ころに高速道路北陸道のパーキングの建物が見えた。地形図では等高線が緩やかだが実際にはけっこうきついジグザグの登りが続いた。いいかげんいやになる頃に北陸道上り線のパーキングの下に出た。杉津駅の跡はこのパーキングの敷地に呑み込まれてしまったようだが、もとの線路跡はそのすぐ下を北に道路になってトンネルに消えていく。いまはこのパーキングの下の道からは木が茂っていて敦賀湾を眺めることはできない。私は山道をさらに登って下り線のパーキングのすぐ下まで来てやっと昔の杉津駅から の眺めを見ることができた。

 北から南へV字形に切れ込んだ敦賀湾は、陸路をだいぶ北に行っても対岸をわりと近くに眺めることができる。午後5時過ぎともなると秋の陽はもはやだいぶ傾いて、静かな海の向うに左から右へ細長く延びる岬は紫色の陰を濃くし、海岸の辺りにはポ ツポツと明りが灯りはじめていた。この珍しくもない景色にアクセントをつけているのが緩い傾斜の先にある杉津の眺めだろう。小さな島が恐らく隆起によって陸続きになったのだろうが、樹の茂る小さな岬(島)を頂点に三角形に陸地が突き出て、岬につながる低地に集落の屋根がかたまっている。はるか越前海岸につながる目の前の茂みは右の方に視界をさえぎるように続いていく。
 
 他所にもありそうで、しかし無いかも知れないこの心ひかれる美しい日本の風景が、杉津駅で車窓から眺めた多くの人たちをひきつけてやまなかったのだろう。全国を旅 した柳田國男も 「越前の杉津の駅頭から、海に臨んだ緩傾斜を見おろした眺めなどは、汽車がほんのもう一分だけ、長く止まって居てくれたらと思はぬ者は無い。」 と書いて いる(前掲「旅人の為に」)。高速道路のパーキングが駅の跡に作られたのも、ここからの景色を愛した人たちが多かったためかもしれない。

 秋の陽は落ちるのが早い。景色に見とれていると辺りはどんどん暗くなってきた。 高速道路を走る車の響きだけが聞こえてくる。先ほど登ってきた道は、傾斜のきつい樹林の中などはもう真っ暗になっていた。小さな懐中電灯を頼りに再び杉津のバス停に戻った時には、まだ6時半だというのにすっかり暗くなった町は静まり返っており、時々自動車が通り過ぎる。駅跡を振り仰ぐと空には十三夜の月が冷たく光っていた。
 
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