ならさかのいしのほとけのおとがひに こさめながるるはるはきにけり 八一
 
 會津八一の歌集 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 にある歌で、詞書に 「奈良坂にて」 とある。奈良坂は、東大寺の転害門の前を北に登る坂で昔から京都方面から奈良に入る主要な街道の一つである。今はすぐ東側に新道が通ったので静かな道となっている。この歌は坂の途中に西向きに立つ大きな地蔵菩薩像を詠んだもので、「おとがひ」 は下顎(あご)。一雨ごとに待ちわびた春の到来を感じる古都の早春の気分がよくうががえる。
 
 この歌の碑は坂の上の般若寺に建っているが、目立たないところに建ち案内も説明板もないのが残念だ。秋篠寺・海龍王寺の歌碑と同じ人が匿名で1970 昭和45年に建てたという。石は生駒石で2寺の歌碑と同じく大石恒義が彫ったが、會津八一らしい重厚な歌碑となっている(上右の写真は歌碑の拓本を軸にしたものである)
 
 般若寺は飛鳥時代までさかのぼる歴史のある寺だが、度重なる戦火で盛衰をくりかえした。坂道に面した鎌倉時代の楼門(国宝)や境内中央に建つ十三重石塔(重文)が歴史を物語っている。また並んで建つやや大きめの石仏は西国三十三か所の観音菩薩像で、江戸時代元禄期のもの。境内に咲くコスモスの花がよく知られておりコスモス寺の異名がある。

 



  歌に詠まれた錫杖と宝珠をもつ大きな地蔵菩薩像は、左右にある銘文によると興福寺の僧浄胤が生前に供養(逆修)のために1509 永正 6年に建てたもので、頭の上に彫られた梵字は阿弥陀如来を示す。500年の長い間ここに立って世の中の推移を眺めてきたことになる。
 

 この地蔵菩薩について八一は、「その表情笑ふが如く、また泣くが如し。またこの像を 「夕日地蔵」といふは、東南に当れる滝坂に 「朝日観音」 といふものあるに遥かに相対するが如し」 と書いている(『自註 鹿鳴集』)。なお、滝坂は新薬師寺の近くから柳生に通じる山道で、石仏がたくさんあるので知られている。
 
(會津八一歌碑巡礼 奈良 9)
 
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追 記 * 秋篠寺・海龍王寺・般若寺の歌碑は匿名の同一人物によって建てられたが、このまま建立者不明で歴史に埋もれてしまうのは残念だと書いてきた。ところがこの3基を建てた大石石材の話により、歌碑は東京の三共製薬社長夫人鈴木ミツ(故人)によるものだという事が判明した。(海龍王寺歌碑の解説、喜嶋奈津代、「秋艸会報」 No.51 2021年4月による) 2022年3月