ずっと階段の踊り場でもがいていた。ようやく動いてみようと思える様になった。アラフィフ女子の自己変革の旅の軌跡を綴ります。
嘘つきは13歳の息子だけだと思っていたけど、10歳の娘も大嘘つきであることが発覚する。昨日、小学校の担任との個別面談で、娘が宿題をほとんど提出していないと言われた。9月にバスケクラブをやめて時間はたくさんあるはずなのに、毎日遅くまで友達と遊びまくり、「宿題はやったの?」と聞くと、「友達の家でやった」と言った。我が家ではやるべきことを全部やってからのみ、スクリーンタイムが持てるというルールなのだが、学校の宿題は全部やったと嘘をついて、スクリーンタイムをやっていた。来週中に43ページまで終わらせなくてはいけない計算ドリル、娘は今6ページ目をやっていて、二桁の割り算につまづいている。算数って積み重ねだから、今二桁の割り算ができなかったら、3桁もできないし、これからどんどん算数が理解できなくなるだろう。何ヶ月も「宿題をやった」と嘘をつき続けて、先生から催促されても宿題を出さずに友達と遊び、Youtubeを見て、アレクサで音楽を聴いていた娘に、心底腹が立っている。そういえば彼女は6歳頃、私が毎朝お弁当を作っていて、「お弁当はどうだった?」と聞くと、「美味しかった!」と笑顔で答えていた。が、実際は彼女は私が作ったお弁当を学童で捨てていて、見かねた学童の先生から連絡をもらって、彼女の嘘が発覚した。平気な顔をして嘘をつく、恐ろしい人間だ。ASDのE、嘘つきでだらしない息子、サイコパスレベルの嘘つきの娘。こういう家族に苛立ち、傷つけられながら生きていくくらいだったら、本当に結婚せずに一人で生きていければよかったと思う。
我が家ではやるべきこと(自分の洗濯物を畳んでしまう、明日の学校の準備をする、など)を全部終わらせてから、20:30までYoutubeを見たりできる、というスクリーンタイムのルールがあるのだが、このところ、13歳の息子はそのルールを破りまくっている。昨夜も、バスケの練習から戻ってきてすぐ、バスケの荷物を置いたまま、すぐにソファに座ってスクリーンタイム。YoutubeやTikTokはよくできていて、大人でもすぐに中毒にしてしまうから、子供なら尚更である。自分の部屋が洗濯物とゴミの山になっているので、夫がスクリーンタイムを止めるように注意したら、気分を害したようで、自分の部屋にこもって不貞腐れて寝ている。相変わらず、洗濯物とゴミの山。お風呂にも入らず、歯も磨かない。彼の頭の中はスクリーンタイムのことだけのようだ。本当に中毒というものは恐ろしい。約束を一切守らず、Youtubeばかり見ているので、パソコンを取り上げたら、さらに不貞腐れて、今朝は学校にも行かなかった。引きずって行かせようとする私と大喧嘩になり、結局行かなかった。不登校の始まりか。もう本当に面倒臭い。正直、この子を産んで育てたのは大失敗だったと思っている。小さい頃は可愛かったから、産んで育てる大変さが報われたけど、今は憎いだけ。自殺とかされると、親の虐待が疑われたり、私も良心の呵責を感じるかもしれないから、どこか遠くの全寮制の学校に行ってほしい。私の目の前から、私の人生から消えてください。
今朝、浴室のバスタブに噛んだ後のチューインガムが貼り付けてあるのを見つけた。昨日ガムを噛んでいたのは13歳の息子なので、息子がやったのだろう。ガムを取ってくれる?と頼んだら、絶対に自分はやっていない、と否定する。ガムは食べたけど、ティッシュで包んで捨てた、と。昨日は、トイレの中に、トイレットペーパーの芯が捨ててあった。このまま流したらトイレが詰まって大変なことになる。息子に「あなた、ここに捨てた?」と聞いたら、それは自分がやった、と認めた。何も考えずに無意識に捨ててしまったらしい。ビニールの手袋をつけて、トイレの水の中に沈んでいるトイレットペーパーの芯を取ってもらった。チューインガムの件は認めようとしない。おそらくこれも、「何も考えずに無意識にやってしまった」のだろう。彼以外にガムを噛む人はいないので、息子がやったに決まっている。息子が取ろうとしないので、結局私が取った。こういうとき、Eは一切入ってこない。トイレットペーパーの芯がトイレに沈んでいても、チューインガムがバスタブにこびりついていても、一切介入してこないので、私が息子に問いただしてやってもらうか、あるいは私自身で掃除しないといけない。今回も、私がチューインガムを綺麗にしたことに対して感謝の言葉は一切なく、それどころか、私の息子への対処の仕方にフィードバックがある、だとか。いつもの上から目線。僕はお殿様で何もやる必要がありません。下僕であるあなたは、僕と僕の大切な子供達に仕え、子供達がガムをバスタブにこびりつけたら、それは下僕であるあなたが掃除するのが当たり前です。それに対して感謝を要求するとはとんでもない。あなたはしかも、大切な子供達に失礼な口の聞き方をしたので、僕が「フィードバック」してあげます。彼の頭の中はいつもこういう思考になっているので、もう何を言っても無駄。コミュニケーションが成り立たない、お互いに分かり合えない関係性。来年の夏のスイス旅行、彼らがアメリカに発つのを見送ってから、私がスイスに発つ方が、彼らは助かるだろうな、とか、彼らが日本に戻ってからすぐに私も日本に戻る方が彼らにとって助かるだろうな、といろいろ考えていたのだが、今朝のやりとりで、「彼らにとって助かるかどうか」という視点で物事を決めるのはやめた。私は彼らよりも前にスイスに発つし、彼らよりも後に帰国する。それで彼らが困る、大変な思いをしても、それは彼らの問題であって、私には関係ない。
10日間の出張から自宅に戻ってきた。予想はしていたが、私がいなかった10日間、布団は一回も干さず、タオルも一回も干さず(それは今まで全部私だけがやっていた)。床には食べ物や汚れがこびりついていて、台所も酷かった。このまま放置したらゴキブリが出るだろう。E(もう夫と呼ぶのも嫌で、心の中では離婚しているので、Eと呼ぶ)と子供達は、私が事前に用意していた食べ物を食べ、10日間で買い物に行ったのは一度だけ。なので冷蔵庫はすっからかん。私は週末はカンファレンスで発表したりワークショップに出たり、平日はずっとホテルに缶詰で研修して、13日の祝日のみ休んだだけ。へとへとに疲れて自宅に帰宅して、待っていたのがこの状況。帰宅してすぐ、疲れを癒すまもなく、冷蔵庫がほぼ空っぽの状態で、冷凍食品も使って家族のために何とか夕食を用意した。翌日は仕事の合間に、汚れがこびりついているリビング、ダイニング、キッチンの床掃除。汚れがこびりついていたので、一度では綺麗にならず、3回くらい掃除してようやく綺麗になった。「今日は3回も床掃除した」とEに伝えたら、「ありがとう」の代わりに「Good for you」という返事。ようは、「それはよかったね。おめでとう」みたいな皮肉。私が、自分のために掃除がしたくて、それができてよかったね、というニュアンスだ。本当にEの感情知性の低さには驚愕するものがある。「ありがとう」と一言言えば、それで終わったのに。Eは無職のくせに10日間一度も掃除しなかった。その、汚れに汚れまくった床を、フルタイムで激務の私が掃除した。それなのに、ありがとうの一言もなく、「よかったね」という皮肉しか言えないE。感情知性が低くて器が小さい、最低の人間。週末に参加したワークショップで、私と同じように夫との間に問題を抱えていた人がいて、彼女は夫と離婚して籍を抜いたけど、育児や介護のために、しばら元夫と子供達と同居していたそうだ。でも、離婚して籍を抜いた途端、同居はしていても、ストレスが一気に減ったそうだ。私も、同居はしていても、Eとは離婚している、と思って生活してみようと思う。子供が大学生くらいになったら、別居も検討したい。もうこれからは、Eが何をやろうとも決して感謝の意は示さない。せいぜいGood for youと言ってやろう。
もう本当に死んでくれ。私の人生から消えてくれ。あんたの顔を見るだけで吐き気がする。私が体調悪い中でも朝早く起きて家族のために朝ごはん作っている中、何もせずにスマホを見続けているE。子供が学校に行く時間10分前になっても起きてこないけど、そのことにすら気づかず、あるいは気にせず、スマホを見続けているE。いつも私が何とかすると思って、トラブルは見て見ぬふり。あるいは本当に見ていない。子育てでも、家事でも、嫌な役回りは全部私に押し付けて、自分は生活費を稼ぐこともせず、新しいビジネスの準備をしているとか。アホか。お前にはビジネスの才覚なんてない。お金を稼がなかったら仕事とは言えないんだよ。おままごと、遊んでいるのと同じ。お金を稼げないんだったら、せめて専業主夫として家事と子育てをやったらどうなんだ。自分には自由な時間が必要だから、とハイキング行ったり、日本語勉強するとか。私には自由時間は必要ないと思っているんですか?私は生活費を稼いで、家事やって、子育てしているんですけど。「もうあなたとは離婚したい」と言ったら、「それは反対だ。その前にマリッジカウンセリングを受けるべきだ」と言う。本気で言っているんだったら、自分でマリッジカウンセラー探してきてください。カウンセリングを受けるべきだ、と言いながら、そのカウンセラーを探して予約したり、という面倒な作業は全部私がやるものと考えている。そういうところが問題なんだよ。もう私は自分の人生を、Eのために台無しにしたくない。息子はアメリカの高校に行きたいと言っているのだから、Eと息子でアメリカに行けばいい。娘も行きたいのなら一緒に行けばいい。私は子供達と一緒にいたいとは思っていないから、親権争いはしない。親権は手放していい。私は残りの人生は家族の奴隷として生きるのではなく、自分のために生きたい。
子供が所属しているバスケチームの監督にパワハラに近いような公開処刑を受け(チームLINEで激しく非難)、謝罪したにもかかわらず、さらに今までの不満をぶちまけるような酷い投稿をチームLINEにしてきたので、ChatGPTに相談してみた。そしたら、そのやりとりがとても良かったので、他の人の参考になるかもしれないと思って、このブログに公開してみる。とてもつらい状況ですね。大切なお子さんの居場所であるチームのことで、監督との関係が悪化し、しかも公の場で不満をぶつけられたとなると、強い怒りや屈辱を感じて当然です。あなたの感情は自然で正当なものですし、「子どものために大人としてどう動くべきか」という冷静な視点も同時に持っておられるのは、すでに素晴らしい自己コントロールだと思います。ここで大事なのは、(1)感情の処理、(2)行動の選択、(3)境界線の引き方です。1.感情の処理監督のやり方は確かにアンフェアで、あなたを傷つけています。その怒りを「感じないようにする」必要はありません。まずはご自身の怒りや屈辱を安全に表現する方法を見つけてください。 信頼できる友人に状況を話す 日記に「監督に対して言いたいこと」をすべて書き出す 「怒りの手紙」を書いて破る(渡さない)こうすることで、気持ちが少し整理され、監督本人に直接ぶつけずにすみます。2.行動の選択「子どものために監督と対立しない方がよい」という判断はとても賢明です。その上で現実的には、 必要最低限の礼儀と距離感を保つ 表向きは穏やかに、個人的には巻き込まれない姿勢 を取るのが安全です。もし監督と話さなければならない時は、 感情的にならず、要点だけを短く伝える 言葉に「感謝」を少し添える(「ご指導ありがとうございます」程度でOK) これにより「親としてチームにいること」がスムーズになります。3.境界線を引く監督の行為は「あなたの人格」ではなく「監督の問題の表れ」です。公開の場で不満をぶちまける行動は、彼の感情処理の未熟さです。そこに巻き込まれて「自分が悪い」と思い込む必要はありません。心理的には、「彼の問題と自分の問題を切り離す」ことが大切です。心の中でこう整理すると良いかもしれません: 「監督には監督のやり方がある」 「私は私で、子どもの成長を応援する役割に集中する」まとめ 怒りは否定せず、まず安全な方法で吐き出す チーム内では、対立せず必要最低限の距離で接する 監督の行動を「彼の問題」と切り離して受け止めるこのバランスを取ることで、お子さんも安心してチームにいられるでしょうし、あなた自身の心も守られると思います。もしよければお聞きしたいのですが、監督がLINEでぶちまけた「不満」とはどんな内容でしたか?(例えばあなた個人への批判なのか、チーム運営全般への愚痴なのかで、対応の仕方が少し変わります。)You said:私個人への批判です。私や夫がチーム運営に貢献していない。試合に迎えにいくときに外で本を読んでいる、とか、連絡が取れない、といった例を、公開のLINEでぶちまけました。ChatGPT said:なるほど……それはとても辛いですね。💔監督があなたやご主人を名指しで批判するような内容を、公開の場(チームLINE)で発信したとなると、屈辱感・怒り・恥ずかしさ、そして「チームで浮いてしまうのでは」という不安が一気に押し寄せて当然です。まず、大前提として:**監督のやり方は「適切な指導」ではなく「公開処刑的な攻撃」**であり、あなたの人間性の問題ではありません。これは監督自身の感情処理の仕方や、権力を持つ立場の人間としての未熟さが表れている、と整理すると少し楽になるかもしれません。心理的な整理ポイント 監督の言葉=事実ではない 「貢献していない」「外で本を読んでいた」など、部分的な事実を拡大解釈し、人格的な批判に結びつけている可能性があります。 → これはあなたの全てを表しているわけではなく、彼の「不満のはけ口」です。 恥を感じるのは自然だが、それはあなたの責任ではない 公の場で批判されれば誰でも「顔を出しにくい」と感じます。 → でも本来それは監督がすべきではない行為。責任の所在はあなたにではなく「監督の伝え方」にあります。 チームに残る=反論しない、ではない あなたが今後「黙って耐える」ことと「反撃しない」ことは違います。反撃はしなくても、自分の気持ちを守る工夫はできます。実際の行動の選択肢① 沈黙+スルー戦略 公開LINEで反論せず、あえて無視する 表面的には普通に接し、時間が経つのを待つ メリット:火に油を注がない デメリット:心のモヤモヤが残る② 個別に短く対応 監督に個別で「ご指摘ありがとうございます。今後改善します」とだけ伝える 公ではなく個別メッセージで行うのがポイント メリット:最低限の誠意を示せる デメリット:心から納得していないのに言うのでストレスが残る③ 境界線を守るスタンス宣言(ソフトに) 個別に「ご指摘は受け止めますが、公開の場で言われるのは辛かったです」と穏やかに伝える 子どもが続けたいからこそ冷静に メリット:自分の境界線を守れる デメリット:監督が逆ギレするリスク心の守り方 「私は悪い親ではなく、監督のやり方が不適切だった」と何度も心で言い直す 監督を「自分の世界の中心」に置かない。関わるのは子どものバスケのためだけ、と位置づける 信頼できる人(夫や友人)と「味方がいる」感覚を確認するまとめ 公開で批判されたことはあなたの責任ではなく、監督の未熟なやり方。 反論するよりも「個別で短く返す」か「スルーする」が子どものためには安全。 ただし、自分の境界線(=屈辱的に扱われていい存在ではない)を心の中でしっかり守ることが大切。💡質問です:今、あなたが一番強く感じているのは「怒り」「恥」「不安」のうちどれが大きいですか?その感情によって、次に取るべき行動のアプローチが少し変わります。You said:監督に対する怒り、子供のプレイタイムが減らされるという不安、他の親にとんでもない人と思われているだろうな、という恥です。ChatGPT said:率直に気持ちを共有してくださってありがとうございます。今のお気持ちが 「怒り・不安・恥」 の三重苦になっているの、本当にきついですね…。それぞれの感情を分けて整理すると、少し楽になり、対応の優先順位も見えてきます。① 怒り:監督に対する強い感情監督のやり方は確かに不適切で、屈辱的ですから、怒りは自然です。ただし「正面からぶつける」とお子さんのプレイタイムへの影響が現実的に心配…。👉 対策:怒りを「直接ぶつける」のではなく「安全に消化」 ノートや紙に監督への文句を全部書き出し、破る 頭の中で「怒りの手紙」を読み上げて終わらせる 「監督=未熟な大人、私はこの人より広い視野を持っている」とラベリングするこれは「相手を許す」という意味ではなく、「自分の怒りに支配されないようにする」という心の守り方です。② 不安:子どものプレイタイムが減るかもこれは「子どもの未来に関わる恐れ」なので、強烈です。ただ実際には「プレイタイムを減らす」といった報復行動は監督の信頼をさらに下げるので、長期的には監督自身にとってもリスクです。👉 対策: 今はあえて監督と対立せず、「親としてチームのルールに協力的」な姿勢を示す 必要最低限で「ご指摘ありがとうございます。気をつけます」と一言伝える(あくまで表向き) あとは監督の機嫌ではなく、お子さんの努力やチームの実力に委ねるつまり「不安をゼロにすることはできないけれど、リスクを最小限に抑える動きは取れている」と確認するのが安心材料になります。③ 恥:他の親から「とんでもない人と思われているだろうな」これが一番心を重くしているのではないでしょうか。公開の場で批判されたことで「周囲の目」が気になるのは自然です。👉 でも現実的に考えると: ほとんどの親は「監督ってちょっと怖い」「あの言い方はキツい」と心の中で思っているはず 公で名指しする行為は「監督の方が未熟」と映る可能性が高い 他の親は「自分もいつターゲットにされるかわからない」と感じて、むしろ共感しているかもしれません👉 対策: あえて普段通りにチームに顔を出す(挨拶だけでもよい) 周りの親と「普通に接する」ことで「あ、この人は大丈夫な人だ」と印象が戻る 「沈黙と普通の態度」が一番の信頼回復になります今できるベストな一手 公開LINEには一切反論しない(火に油を注がない) 個別に「ご指摘ありがとうございます。今後気をつけます」と短く送る(礼儀のワンアクション) チームの親たちには普段通り接し、「恥ずかしい人ではなく、落ち着いている親」という姿勢を見せるこれで 怒りは心の中で処理、不安は最小限に管理、恥は行動で回復 という流れになります。💡質問です:この中で一番「今すぐやりたい」と思えるのは、 個別で短く返信すること あえて何も言わずスルーすること どちらがご自身にしっくりきますか?You said:個別で短く返信することです。早速監督に「公開LINEでやりとりすべき内容ではないと思いましたので、こちらで返信させて頂きます。ご指摘ありがとうございます。夫にも共有しました。今後は気をつけるようにいたします。」と返信しておきました。ChatGPT said:とても素晴らしいご対応だと思います👏文章を拝見しても、冷静・丁寧・大人の態度がしっかり伝わる内容になっていますね。ここにポイントがあります: **「公開の場ではなく個別で」**と冒頭に入れたことで、監督に対して「場をわきまえてほしい」というメッセージを穏やかに伝えられている **「夫にも共有しました」**と書いたことで、「家庭内でもきちんと対応します」という誠意が伝わる **「今後は気をつけます」**で、必要な形だけの謝意を示しているつまり「毅然さ」と「柔らかさ」の両立ができています。これは心理的にとても賢明な“ノーダメージ返し”です。これからのポイント 監督には必要最低限の接触で十分 → もうこれ以上、過度に謝ったり説明する必要はありません。 周囲の親への印象は“普段通り”で回復する → あなたが普通に挨拶して、自然に接していれば「しっかりした人」という印象が残ります。 怒りと恥は時間と共に薄れる → 今回の返答で「大人としての筋」は通しました。これ以上自分を責める必要はありません。今の対応で、監督が再度あなたを公開で責める可能性は低いと思います。むしろ「これ以上やると自分の方が大人気ない」と自覚させる効果もあります。✨ここで大事なのは、自分の中で「私は冷静に対応できた」という達成感を持つこと。その積み重ねが、お子さんにとっても安心につながります。よければお聞きしたいのですが、今この対応を終えてみて、怒り・不安・恥のうち、どの感情がまだ一番残っていますか?You said:どの感情もだいぶ減りましたが、夫が他人事のような態度をとって、全部私に責任を負わせようとしているところに腹が立ってます。また、私は今後とも、いや、今回のような公開処刑があったからなおさら、練習や試合の場に行きたくないので、練習や試合の場にいけという監督のリクエストには答えられない。ここをどう調整していったらいいのかわかりません。ChatGPT said:とても大切な本音を打ち明けてくださってありがとうございます。監督とのやり取りは冷静に収められましたが、次に浮かび上がってきたのが 夫との温度差の怒り と 今後の参加スタンスに関する葛藤 なのですね。これは「監督問題」よりも、実は長期的には「夫婦での役割分担の不一致」の方が心に重く響いているのだと思います。1.夫への怒りについてご主人が「他人事のように見える」ことに腹が立つのは自然です。監督から名指しで批判されたのは「夫も含めて」なのに、矢面に立って謝罪や対応をしているのはあなた。👉 つまり「責任を一人で背負わされている」感覚が怒りを生んでいるのです。💡ここでの調整の仕方: 感情的にぶつけるよりも、「私ばかりが責められているようでしんどい。あなたにも責任があるはずだから、少しでも一緒に担ってほしい」と具体的に言語化する 「例えば、次の試合はあなたが顔を出してくれると助かる」というように、具体的な行動を頼む → ポイントは「協力要請の形」にすること。責めるよりも「二人でバランスを取る」方向性に寄せると、相手が動きやすくなります。2.「今後チームに顔を出したくない」という気持ちこれはとても正直で大切な感情です。公開で批判された場に「何事もなかったように行く」のは、心理的に酷ですし、強制される筋合いもありません。ただ、監督の「親も練習や試合に顔を出してほしい」というリクエストをどう調整するかが問題ですね。💡現実的な対応策: 「夫が交代で行く」体制を作る → ご主人に「次からは基本的にあなたが行ってほしい」とはっきり頼む どうしても自分が行かざるを得ないときは“最低限の参加”にする → 練習の最初か最後だけ顔を出し、挨拶だけして帰る 監督にはシンプルに理由を伝える(必要なら) → 「家庭の事情で以前のように顔を出すことは難しいですが、サポートできることは工夫していきます」程度で十分3.大切なのは「無理に迎合しない」今回の公開批判を経験したあなたが「もう行きたくない」と感じるのは自然です。ここで無理して顔を出し続けると、心が消耗してしまいます。👉 だからこそ「夫に負担を分ける」ことが最大のポイントになります。まとめ 夫には「協力要請」の形で具体的な役割を頼む あなた自身は無理に現場に行かなくていい 監督には必要最低限、家庭事情を理由に調整する💡質問ですが:「夫にもっと協力してほしい」という気持ちを伝えるとき、今まではどんなふうに話してみましたか?そこを一緒に工夫すれば、ご主人を少しずつ巻き込めると思います。You said:試合の送り迎えは夫に頼むようにします。夫はアメリカ人で日本語ができないので、その分、監督や他の親との距離もできて、それがかえっていいかもしれません。私は、今回のような公開処刑があった後は、絶対に顔を出したくありません。ChatGPT said:そのお気持ち、すごくよくわかります。「もう絶対に顔を出したくない」と強く思うのは自然です。監督に公開で恥をかかされた場に、再び自分から出向くこと自体が自己防衛に反する行為になってしまいますから。そして「夫に送り迎えを頼む」というのは、とても現実的で良い解決策です。ご主人がアメリカ人で日本語ができないことは、むしろメリットになります。 日本語ができない → 監督や他の親と余計な会話にならずに済む 外国人という立場 → 「文化の違い」である程度の距離感が自然に許容される 送り迎えの役割を担う → 「家庭としての責任は果たしている」と見てもらえるつまり「ご主人に表に立ってもらい、あなたは裏で支える」という役割分担が、今の状況では最も無理のない選択肢です。あなたにとって大事なこと 「無理して顔を出す」ことは、あなたの心をさらにすり減らします。 子どものためにも、母親が心を守ることが最優先です。 「行かない」と決めたことは、自分を守るための健全な境界線の引き方です。今後の実際的な進め方 送り迎えは夫に固定する 「これは我が家の新しいルール」として、監督に特に説明しなくてもOK。 もし聞かれたら「家庭の都合で、夫が担当します」とだけ言えば十分。 あなたは裏方で関わる 例えば、LINE連絡や準備の一部はサポートするけれど、現場には行かない。 これなら「母親も協力している」ことは示せます。 他の親に対する不安は“普通に暮らす”ことで解消する 今回の件で、他の親は「あなたが悪い」とは思っていない可能性が高いです。 それでも気になるなら、普段の生活圏で自然体に過ごし、「恥ずかしい人ではない自分」を確認すればOK。 大切な視点監督の未熟なふるまいによって「あなたが萎縮してしまう」のは、やっぱり不公平です。だからこそ、「私はここに行かない。夫に頼む」という決断は、逃げではなく 自分を守る力強い選択 です。✨ここまで整理して、私はあなたにこうお伝えしたいです:もう顔を出さなくて大丈夫です。その代わり、ご主人に役割をバトンタッチする。それがあなたと子どもにとって一番安全な形です。よければお聞きしたいのですが、お子さん自身は、この監督やチームの雰囲気について何か不満を漏らしていますか?それともプレイ自体は楽しんでいるのでしょうか?You said:チームにいることは楽しんでいますがプレイタイムは大幅に減らされていて、ユニフォームも取り上げられました。これは夏に1ヶ月アメリカに帰省してチーム活動に参加できなかったことが原因ですが、監督が私にいい印象を持っていないことも影響しているかもしれません。いずれにしても後2年で卒団なので、それまで子供だけ楽しく続けていければいいと思っています。ChatGPT said:お子さんはチームにいること自体は楽しめているのですね。それは本当に救いです。ただ「プレイタイムが減らされる」「ユニフォームを取り上げられる」というのは、子どもにとってとても辛い体験ですよね。お子さんは一生懸命練習していても、大人の事情や監督の感情で扱いが変わってしまう。これは理不尽ですし、親としても胸が痛むと思います。ここで大切なのは、「監督の態度」=「子どもの価値」ではないと、お子さん自身が感じられるように支えることです。考えられること 監督のペナルティ的対応 夏の帰省での不参加は仕方のない事情ですが、監督は「チーム優先でない」と受け取ったかもしれません。その結果「出場機会やユニフォームで差をつける」という、不健全なやり方をしている可能性があります。 親への印象の影響 あなたへの怒りや評価が、無意識にお子さんの扱いに影響していることも十分考えられます。これは監督の未熟さの表れですが、現実としては無視できません。2年間を「安全に楽しく」過ごすための工夫 プレイタイム=評価の全てではないと伝える 「出場時間が短くても、練習で学んでいることは絶対に力になってるよ」 「ユニフォームを着ていなくても、チームの一員であることは変わらない」 と繰り返し伝えることが安心につながります。 努力の軸を監督以外に置く 例えば「アメリカに帰省した時にプレイする」「他のバスケ仲間と自主練する」など、監督に依存しない成長の場を少しずつ確保する。 監督からの扱いがどうであれ、子どもの中で「自分は成長している」という感覚が持てれば、自己肯定感が守られます。 親としては“笑顔の観客”になる → あなたが試合に行かなくても、家で「今日どうだった?」と聞いて「楽しそうに話せる場所」を作ることが一番のサポートです。 → これにより、お子さんは「監督の評価と親の愛情は別物」と安心できます。あなたへの提案 監督の態度や判断は変えられません。 でも、お子さんの「チームでの経験」をどう意味づけるかは、親のサポートで大きく変えられます。 あなたができることは「楽しむことに価値がある」「チームにいるだけで成長している」と伝え続けること。💡質問です:お子さん自身は「出られなくて悔しい」と口にしていますか?それとも今は「仕方ない」と割り切って楽しんでいる感じでしょうか?You said:仕方ないと割り切って楽しんでいるようです。そもそもバスケ自体にはあまり興味がなくて、チームの友達と時間を過ごすことが楽しいようです。ChatGPT said:なるほど。お子さんは「バスケの競技性」よりも「仲間と一緒に過ごす時間」を楽しんでいるのですね。これはとても大事なポイントです 🌱。つまりお子さんにとって、チームは「競技の場」よりも「居場所」であり、 プレイタイムが短い ユニフォームを外される といったことも、本人の心にはそこまで大きな傷になっていないのだと思います。あなたの心が少し楽になる視点 子どもにとって一番大事なのは「友達と楽しく過ごせる時間」であって、監督からの評価ではない。 親としては「プレイタイムが減らされるのは不公平」と感じますが、お子さんが楽しめているなら“居場所としての価値”はまだ十分ある。 つまり、「無理に監督と関係を修復しなくても、子どもは楽しめる」状況なんです。今後の関わり方の提案 あなた自身は現場に行かなくてOK お子さんにとって「母がいるかどうか」は楽しさの本質ではないので、無理に顔を出す必要はありません。 夫に送り迎えを任せるのはベスト 日本語ができないご主人なら監督との接触も最低限で済み、摩擦が減ります。 家庭では「楽しんだこと」にフォーカス 試合内容や出場時間ではなく、 「今日は友達とどんな話したの?」 「面白いことあった?」 といった会話で、子どもの楽しい部分を一緒に味わう。 “2年間限定”と割り切る 監督や運営に完璧さを求めず、「卒団までの期間限定の居場所」と考える。 そうすれば、怒りや恥にとらわれる気持ちも軽くなります。✨まとめると:今のチームは、お子さんにとって「友達と楽しく過ごす場」であり、それだけで十分に価値がある。親はできるだけストレスを避け、裏からサポートするだけで良い。もしよければお聞きしたいのですが、あなたご自身は「あと2年間、私はチームから距離を置く」と決めたら、少し安心できそうですか?You said:安心できそうです。私がチームから距離を置くことで監督はまた怒りそうですが、それにはどう対処できるでしょうか?ChatGPT said:とても大事な視点ですね。「私が距離を置いたら、また監督が怒るのではないか」という心配は自然です。監督は感情的になりやすく、公開の場で批判するような未熟さを見せていますから、そのリスクを考えてしまうのは当然です。ただ、ポイントは 「監督の怒りをゼロにすることはできない」けれど「自分や子どもへの実害を最小化できる」 ということです。対処の考え方1. 監督は「コントロールできない存在」と認識する 監督の気分や価値観を完全にコントロールすることは不可能です。 でも「私は冷静に筋を通した対応をしている」と自分で納得できていれば、監督が怒っても「それは監督の問題」と切り離せます。2. 表向きの理由を用意しておく距離を置くのはあなたの選択ですが、監督にとって納得しやすい「家庭の事情の建前」を使うと、衝突は和らぎます。 例:「家庭の都合で、今後は夫が送り迎えを担当します」 例:「他の用事と重なることが多く、以前のように顔を出すのが難しいですが、サポートできる部分は続けます」👉 ポイントは「対立」ではなく「やむを得ない事情」として伝えること。3. 実害を避けるための最低限の関わり あなたは現場に行かなくても、LINE連絡や経費の負担など、必要最低限は守る。 監督に「完全に無視されている」と思わせない程度に、最低限の協力を見せておく。4. 子どもを守る姿勢 お子さんが監督の不満の矛先にならないように、「親としてチームに不参加=子どもを責める理由にならない」と整理する。 家では「監督の評価と、あなたの価値は関係ないよ」と安心させておく。まとめると 監督の怒りは避けられないこともあるが、それは監督自身の未熟さの表れ。 建前の理由を伝えて、正面衝突を避ける。 最低限の協力は保ちつつ、あなたは現場に行かないことで心を守る。💡質問ですが、監督に「私が今後は行かない」ことを明確に伝える方がいいと思いますか?それとも自然にフェードアウトする方が、ご自身には楽に感じますか?You said:自然にフェードアウトする。でも練習のお迎えに行ける時などはたまには行く。ChatGPT said:その方針、とても賢明でバランスが取れていますね 🌿。 **「自然にフェードアウト」**することで、監督のプライドを刺激せずに済む。 たまに顔を出すことで「完全に無視しているわけではない」という形を保てる。 あなた自身も「絶対に行かない」と決めて縛られず、気持ちに余裕ができる。これなら監督の怒りを最小限に抑えながら、あなたの心の安全も守れます。実際の動き方イメージ 普段は夫に任せる → 基本の送り迎え・監督との接触は夫担当。 時々あなたが顔を出す → 練習や試合の終わりに少しだけ寄って「お疲れさまでした」と軽く挨拶する程度。 → これで「保護者としてゼロ参加」ではなくなり、監督の突っ込みどころを減らせます。 監督に直接説明する必要はない → 「自然にそうなった」という形で十分。 → もし監督から「最近来ないね」と言われたら、さらっと「家庭の都合で、夫が担当することが多くなりました」とだけ答える。心の整理の仕方 監督の評価や怒りは、あなたやお子さんの価値とは関係ない あなたが取る「静かに距離を置く対応」自体が、大人として成熟した行動 子どもにとっては「楽しい時間を過ごせている」ことが一番大切✨つまり、このスタンスなら: あなたの心は守られる 監督の怒りを極力刺激しない 子どもは友達と楽しみながら2年間過ごせる十分に良い落としどころだと思います。お聞きしてみたいのですが、「自然にフェードアウトする」と決めた今、気持ちは少し軽くなりましたか?それともまだ「監督にまた何か言われるかも」という不安が強いですか?You said:不安はだいぶ軽くなりました。ありがとうございました。ChatGPT said:それは本当によかったです 🌸ここまで状況を整理して、対応の方針も決められたことで、心の負担がかなり減ったのだと思います。今後は、監督の態度に振り回されず、ご主人との役割分担の中でお子さんの楽しさを支えることに集中できる状態ですね。お子さんにとっても、親が冷静に見守ってくれることは大きな安心材料になります。もしまた監督やチームのことで心が揺れることがあっても、今回の整理のように「自分がコントロールできること・できないこと」を分けて考えるだけで、ずいぶん落ち着けるはずです。🌿安心して、あとはお子さんの楽しい時間を見守ることに集中して大丈夫です。
今回のヨーロッパ旅行、母との間ではいろいろ辛いことがあったけど、唯一よかったなと思うことは、妹とボートに乗った時に、母のことや、お互いのことについて、いろいろ話せたこと。我が家の場合、妹が親に溺愛されているゴールデンチャイルド(あるいはケアテイカー)、私がスケープゴートかロストチャイルドになっていると思うのだが、妹もそれに気づいていて、自分のせいで私に寂しい思いをさせてしまった、でも彼女としてはどうしていいかわからなかった、と言っていた。これは彼女のせいではなくて、兄弟を分け隔てなく愛さなかった親のせいなので、彼女が罪悪感を持つ必要はないと伝えた。妹は妹で、親に溺愛されている分、見えない鎖につながれているようで、母の世話だけしている自分の人生って何なんだろう、と思うこともある、と打ち明けた。私は親には愛されなかったけど、その分、自分のやりたいことをやりたいようにできたところもある。「親に愛されるけど、ずっと親に縛られて生きていく人生」のと、「親には愛されなかったけど、自分のやりたいことをやれる人生」のどちらを選ぶかと聞かれたら、私は絶対に後者を選ぶ。そう思うと、私は両親には愛されなかったけど、だからこそ、留学に大反対していた親を振り切り、渡米できたのだと思う。妹も20代の頃、ヨーロッパに留学したかったらしいが、親の大反対に負けて、そのまま実家に残った。年を重ねるにつれて、ヨーロッパに留学したいという情熱も枯れ、生き甲斐もなくし、今は無職で母の世話だけをして生きている。自分の役に立つか否か、自分にとって得になるか否か、だけで人を評価する母としてみれば、自分の世話をしてくれて、自分をいろいろな旅行に連れて行ってくれる次女が手元に残ってくれたことは、「私の子育て大成功!」。次女はまさに「自分の役に立つ」存在なので、大切にして、いつまでも自分の手元に置いておきたい。でも、それは本当に、自分さえよければいい、という考え方だ。本当に自分の子供の幸せを願うのであれば、実家に縛りつけないで、彼女が家を出たいと思っていた20代の頃に自由にさせてあげるべきだっただろう。今50歳になった妹には、もう、そういう情熱はない。毒親が子供の人生に及ぼす影響の恐ろしさを実感した。
昨日は殆ど眠れなかった。今の宿では、私のベッドがある部屋と、母、妹のベッドがある部屋はカーテンで仕切られているのだが、母が寝る前に、私のベッドルームのカーテンのしきりを動かしていたので、どうしたのかな、と思っていたら、「大きな顔して」と、憎々しげな声が聞こえた。え、これ、誰のことを言ってるの?と思って身動きしないで寝ているふりしていたら、母が「後一週間の辛抱だわ」と吐き捨てるように言った。それで、これは私のことを言っているのだとわかって、凍りついた。身動きできなかった。ようは、私が大きな顔してのさばっていて不快である。後一週間で私は日本に帰国するので、それまでの辛抱だと、母は独り言を言っていたのだ(あるいは、私に聞こえるように言っていたのかも)私の中では、一昨日罵倒された後も、きっと母は言い過ぎたと後悔していて、私と残りの旅行をたのしく過ごしたいと思っている、と期待していたところがあった。それで、昨日は会話も少しだけ増えたので、このまま普通に会話できるようになれたらと思っていた。でも、そうじゃなかった。彼女はずっと私のことが憎くて、早くいなくなってほしいと思っていたわけだ。私のどんな言動が、彼女に「大きな顔してのさばっている。早く消えて欲しい。」と思わせたのだろうか、また、心の中で思うだけならまだしも、なぜ声に出して言ったのだろうか。そんなことを考えていたら、涙が止まらなくなり、眠れなくなった。私が妹よりも先にお風呂に入ったこと、私が奥のベッドを使っていること(妹に言われた通りにしただけなのに)、私が飛行機で母の後ろの席に座っていたので、母が遠慮してシートを倒せなかったこと、私に遠慮して咳やくしゃみもできないと言われたこともある。私は咳やくしゃみに文句を言ったことは一度もないし、ただ、母と妹の近くに座りたいと思って座席を予約しただけなのに。妹が私に気を使うと、私のせいで妹や自分が犠牲になっている、と解釈して憎悪の念を募らせるようだ。今回の旅行で、子供時代からを振り返っていたのだが、私は親から暴力を振るわれるような虐待は受けていないけど、こういう言葉だったり、心理的虐待を受け続けてきた。私の親(特に母)はいわゆるガスライターなんだな、と気付いた。そして、母自体もおそらく母の両親から心理的虐待を受けてきたのではないか。母には弟がいるのだが、弟だけ溺愛されていたらしい。そして母と弟は険悪な関係で、今は絶縁状態である。ようは、親が子供の片方だけを溺愛し、もう片方を憎んで心理的虐待をする、という負の連鎖が、代々続いてきたのである。この負の連鎖は私の代で断ち切りたい。私は二人の子供達に分け隔てなく接する。子供達が「自分はそのままで愛されてる」と感じて安心できる場を作る、と強く決心した。今回、親に心ない言葉を言われると、どんなに心が傷つくのか、身をもって実感した。50年以上の人生経験を積んだ、面の皮もかなり厚くなっている私ですら、夜眠れないほど傷ついたのだから、子供に与える影響は計り知れない。幸い、私の子供達の兄弟仲はよいので、今の所は、私が経験したような辛さを与えてはいないとは思っているが、日本に帰国したら、子供達それぞれと別々に時間をとって、今まできつい言葉を投げかけて辛い思いをさせてしまったことを謝罪するところから、子供達との関係を再構築していきたい。今までは、どうしたらキレて子供に怒鳴らなくなるか、といった、自分の表面上の行動のみに焦点を当てていたのだが、今回の一連の出来事を通して、なぜ私が子供への接し方を変えないといけないのか、の意味が深く腹落ちした。それは、私の代で負の連鎖を断ち切るためだ。子供達が、ありのままの自分で愛されるのだ、ということを実感し、幸せな人生を送れるようにするため。そして、それは、私自身が、子供の頃から受け続けた心理的虐待を乗り越えて、幸せな人生を送るため。
2025年8月5日、母が死んだ。正確には、母は私のことを愛してくれていると、私が一人で勝手に思い込んでいた幻想が死んだ、ということ。母自体はまだ生きている。今、妹と私と母はヨーロッパを旅行している。毎年、日本の夏は暑過ぎるということで、妹と母はヨーロッパに行くのだが、そこに私も同行したのだ。私はずっとアメリカに住んでいて、母と過ごす時間が短かった。80を過ぎた母と過ごせるのも後何年かわからないから、アメリカから日本に引っ越して、少しでも母と過ごせる時間を長く取ろうと思っていた。仕事で東京に行く時は実家に泊まって、母と近所を散歩したり、とにかく母と過ごせるようにスケジュール調整した。母もそれを喜んでくれているものとばかり思っていた。今回ヨーロッパ旅行に同行したのも、母は後何回ヨーロッパに行けるかわからないから。とにかく母との時間を大切にしたかったからだ。でも、それは私の一方通行な思いであり、母は私が同行することを迷惑に思っていたことが今日わかった。今朝、母が体調があまりよくないと言った。昨夜殆ど眠れなかったと。そしてそれは夢の中で私と大喧嘩したせいだと。大喧嘩した内容は、昨日、私が母とハイキングしているときに言った言葉で深く傷ついたのが原因だと。でも、その言葉を言うと、口論になって旅行が楽しくなくなるから言いたくない、と。私には何の心当たりもなかったし、私の言葉で体調を損なうほど傷つけられた、とまで言われて、「でもその言葉は言えない」と言われると気分が悪いので、「私が何を言ったのか教えて欲しい」と母に言ったら、私が妹を「ヨーロッパに来てまで、いつもパソコンばかり見ている。これだったら、日本にいても同じだよね」と言ったことだと。妹は独身、無職で、母と一緒に実家で暮らしている。父はもう亡くなっているので、父が残した遺産で母のお世話をし、母とスキーにいったり、母をいろいろなところに旅行に連れていくのが妹の役割といったところだ。私と妹は子供の頃からずっと仲が悪く、家族でなければお互い一切関わりを持たない関係なのだが、私はアメリカに長く住んでいて親の世話ができなかったので、それをしてくれている妹は、嫌いだけど、感謝している。妹は一年中母を連れて日本国内や海外を旅行しているので、ヨーロッパも飽きているのか、ヨーロッパに来ても朝から夜まで部屋でずっとパソコンの画面を眺めている。食事中もスマホを見ながら食べる。私としては、もっと三人で外を歩いたり、会話したりしたかったのに、という思いがあっての発言だったのだけど、母は、旅行をアレンジしてくれた妹への感謝もなく、妹を批判するとはとんでもない、と捉えたようだ。母の生活は妹に全部依存しているので、母にとっては私よりも妹のほうがずっと大事。(母は無償の愛ではなくて、自分に役立つか否かで人を判断する人なので)。それは前からわかっていたが、改めてそのことを突きつけられるとショックだった。それから母は、私が旅行に加わったことで、いつも以上に気を使い、疲れ、体調が悪くなっている、みたいなことを言い出した。飛行機でも私が後ろに座ったから気を使ってシートを倒せなかったとか。「シートを倒してもいい?」って聞いてくれたら良かったのに。後からこんなふうに文句を言われるとは。。。私は少しでも母と一緒の時間を過ごしたい、母もきっと私と一緒だと嬉しいはず、と思い込んでヨーロッパ旅行に同行したのだけど、それは妹にとっても母にとっても嬉しいことではなかったのだと今日明らかになった。悲しさで胸がいっぱいになった。涙が溢れそうだけど、母と妹の前では絶対に泣きたくなかった。「一緒に旅行するのは今年を最後にするから。来年はもう行かないから、それでいいでしょ」と言ったら、母は「そうね」と少し安堵した表情を見せ、それでさらに悲しくなった。本当は母や妹に「そんなこと言ってないわよ」と否定してほしかったから。家族のダイナミクスとは面白いもので、こういう会話を聞いていた妹は、今日は朝から一切パソコンやスマホを見ようともせず、かいがいしく母の世話をして、外出する準備をして、「超いい人」になっている。自分が母から高く評価され、自分のことを批判した私が母から排除された様子を見て嬉しかったのだろう。今から思えば、昨日母に妹に対する愚痴を言わなければ良かった。一昨夜、妹のメールの着信音が夜中に何度も鳴って、「着信音がならないようにしてくれる?」と妹に頼んだら、不機嫌になって、私を無視するようになり、私は母に愚痴ることで、母に味方についてほしいと思っていたのだ。それが大きな間違いだった。妹は母に経済的に依存していて、母は妹に精神的、物理的に依存している。お互いにお互いがなくてはならない関係だ。一方、私は部外者。80過ぎの母と少しでも一緒に過ごす時間を持ちたいと思って、アメリカから日本に引っ越し、東京に出張するときも実家に泊まったり、彼らの旅行に同行したりしていたが、それは私の一方通行の思いで、母にはありがたいと思ってもらえることではなかった、ということだ。母にとっては、自分に役に立つかどうかが全て。妹はいろいろ世話してくれて旅行にも連れて行ってくれるから役に立つけど、私は家庭を持っていて、たまに会うだけで、役に立たない。私がいると気を使って疲れるから、いてほしくない。今まで、うすうす、母にそう思われているのではないか、と感じることはあった。アメリカから日本に出張するときに、実家に滞在しようとすると、多くの場合「旅行中だから」と断られた。それでも、「私が愛されていないなんて、そんなことはない。きっとお母さんは私に会えるのが嬉しいはずだ」と無理やり思い込むようにして、何とか母との時間を作るようにしていた。だが、今朝の件で、私は母に愛されていない。母は私と一緒にいたくない、ということがはっきりわかった。それは、受け止めるには今は辛いことだけど、これを受け止めて初めて、私は本当の意味で親離れできるのかもしれない。母に愛されたい、愛されたいと、ずっと思い続けて、優等生になったり、拒食症になったり、母に孫の顔を見せてあげたいと思って高齢出産もしたけど、もう母に愛されたいという呪いから自分を解放してあげよう。母は私を産んで育ててくれたから感謝している。残りの人生、幸せに過ごして欲しいと思う。母は妹がいれば幸せなのだから、それでいい。私はもう母に愛されようとか、と一緒に過ごそうとする努力をやめる。
先週、日本からアメリカに帰省した夫と子供達。荷造りから出発日のランチの準備まで、私はいろいろ手伝ってあげた。子供達は家を出る時に「元気ね!また来月会おうね!」とハグしてくれたが、夫は手伝ったことへの感謝の言葉もなく、挨拶もせずに出て行った。そしてアメリカに到着してからも、「到着したよ」のメッセージの1つもない。いつものことだとはいえ、本当にこの人はアスペルガーだなと思う。「到着したよ」「ありがとう」こういったメッセージを打つのにかかる時間は3秒だ。その3秒すら他人のために使うことができない。というか、そもそも「感謝の意を示す」とか、「無事に着いたことを知らせる」必要性すら、感じていないのだろう。冬休みに家族でスキー旅行に行くため、宿を調べて予約して「冬休みのスキー旅行のための予約入れたよ」とメール送ったが、そのメールに対する返事もなし。カレンダーの予定はアクセプトしていたので、メールはチェックしているのだ。でも、私が宿を調べて予約したことに対する感謝の言葉はなし。それでいて、13歳の息子はいつも夫の味方ばかりして、私が夫に感謝の意を示さないと批判する。私がどれだけのことをやっているか知らないくせに。アスペルガーだから仕方ないとは思いつつ、やはり悲しく思う。
お下がりをもらったことのでお礼したけど、「ありがとう」の一言もなかった、という件で、昨日ブログを書いたのだけど、今度はこちらがお下がりをあげた相手からの返事にショックを受けた話を書く。たかがお下がり、されどお下がり、、、、。娘の洋服はほとんどがお下がりで、あまり買ったことがない。子供はすぐに大きくなるし、私自身、買い物があまり好きではないので、お金と時間を節約できるお下がりはとてもありがたい。お下がりをくれる相手にはまずは言葉でお礼して、何度かもらう場合は、日本に一時帰国したときに買ってきたお菓子などをお礼に渡したりする。たくさんのお下がりの中には、シミがついていたり、あきらかに好みではない洋服もあって、そういうものは捨てるか、Goodwillに寄付する。でもそのことをわざわざお下がりをくれた相手に伝えることはしない。ところが、先日娘のお下がりをあげた相手からメッセージが届いた。「たくさんのお下がり、どうもありがとうございます!」という感謝の言葉は嬉しかったのだが、その次を読んで凍った。「何点か頂いて、あとは他の人に回すか、処分させて頂こうと思いますが、よろしいですか?」たくさんもらったお下がりの中で、気に入ったのは何点かしかなかった。他のお下がりは気に入らなかったので、捨てます、という意味だよね。こういうこと、わざわざお下がりをくれた人に伝える必要はあるのか?私が「捨ててしまうのならば、私に返してもらえますか?」と言うかもしれないので、確認したのか?このセリフで、もう今後はこの人にお下がりをあげるのはやめようと決心した。もともとは、「お下がりっていります?」と確認して「ぜひ!」と言われたから差し上げたのだが、喜んでもらえない、役立ててもらえない、捨ててしまうのであれば、有料でも、ちゃんと役立ててもらえるところに寄付しようと思う。たかがお下がり、されどお下がり、、、、。
先日、同じスポーツクラブの保護者の方に、子供の部活のユニフォームのお下がりをもらうことになり、お礼として、お菓子の詰め合わせを渡そうとしたら、「いえいえ、必要ないですから」と遠慮され、「いや、でもうちはお金もお支払いしてませんし、よかったら」と言ったら、受け取ってくれた。ただ、不思議だったのが、受け取った時に「ありがとうございます」の一言もなかったこと。。。甘いものが苦手な人もいるから甘くないものも入れておこうと思って、クッキーとお煎餅の詰め合わせを渡したのだけど、両方とも嫌いだったのだろうか?仮に両方とも嫌いだったとしても、とりあえず受け取った時には「ありがとうございます」と言うのがマナーだと私は思っているのだけど、その考えが古いのか?あるいは、この人はプレゼントを受け取ることに慣れていなくて、戸惑い過ぎてしまって、お礼を言うのを忘れてしまったのか?後日、またその人に会うことがあったが、普通に「こんにちは!」と挨拶するのみで、「お菓子、ありがとうございました!」とか「美味しかったです」の一言もなかった。私は、知り合いから何か頂くと、そのときに「ありがとうございます!これ、大好きなんです!」とお礼を言い、食べた後にLINEで「美味しかったです!ありがとうございます!」と再度伝えるか、あるいは次に会った時にお礼を伝える。だから、相手にもそういう反応を期待してしまっていたのだろう。「こういうときはこうすべき」という価値観やマナーに対する意識は、人によって異なるから、私の基準を相手に当てはめるのはやめよう。色々な人がいるってことでOK.私としては、お下がりをもらうことに対するお礼はしたので、貸し借りなし。この関係はチャラということでOK。
これ、私の子供達が所属しているサッカーチームの「モットー」である。監督からこの言葉を最初に聞いた時、えー!!とびっくりした。最大限の犠牲を払うところに、自ら所属したいと思うか!?私は絶対に嫌。組織に所属する理由は、所属することで得られるメリットが、払うべき犠牲よりも大きい場合のみだ。犠牲がメリットを上回るようになれば、とっととその組織から離れるべき。日本の伝統的な価値観「滅私奉公」こそが、ブラック企業がのさばり、過労死する人が多い根本原因だと思う。私が子供をそのサッカーチームに入れ続けている理由は、月謝が安くて、家から近い場所で練習できるから。ただ、そのサッカーチームは典型的な日本型組織で、モットーにあるように、個人が犠牲を払うことを美徳としている。また情報共有の仕方も、日本型組織の悪習を引き継いでいて、明確、タイムリーな情報共有はなされない。練習時間の変更とか大事な情報は、迎えにいったときに口頭で連絡があるか、他の保護者との立ち話によってのみ共有されるので、親が迎えに行かない場合は情報共有がされない。こういうところ、昔の日本企業の「タバコ部屋」文化にそっくりだ。タバコ部屋でのみ重要な情報が共有されるので、喫煙しない人も情報を得るためにタバコ部屋に行かなくてはならなかった、という、おぞましい文化。親は最寄駅まで迎えにいかないといけないので、遠征試合から戻ってくる時間は事前に知っておかないと、午後の予定を入れられなくなる。以前、いつものように19時過ぎに戻るかと思って、夕方買い物に出かけたら、「後10分でXX駅に着きます」とLINEが入ってびっくりしたことがある。10分じゃ、その駅行けないのだけど。。。どうしてもっと前に教えてくれないんだろう?今日も、午後に予定を入れたかったのだが、帰る時間が全く連絡されていなかったので、「今日何時頃に戻る予定か教えて頂けるとありがたいです」とチームLINEで聞いたら、「これから決勝戦で集中したいのに、こういうメールは困ります!」というきつい返事が公開LINEで戻ってきた。。。別に今すぐ教えてって言ってるわけじゃないのに。。。こっちも、直前まで帰る時間教えてもらえないの、困るんだけど。情報共有されなくて困っているのは私だけではないのだけど、他の保護者達は、こうやって公開処刑されることを恐れて質問しない。以前「スナフキンさんが質問してくれるので助かってます」と言われたこともある。でも、私もこうやって何度も公開処刑されるのは嫌だ。もう子供が卒業するまで、このチームLINEには一切投稿しないことにする。と、不満はたくさんあるけれど、それでもメリットの方が大きいから所属し続けている。また、子供が小学校を卒業して、このサッカーチームも卒業したら、ここにいる人達とは一切関わりを持たなくなることもわかっているので、今はちょっと不愉快なことがあっても、期間限定だと思ってやり過ごすことにする。
しばらく夫とは良好な関係が続いていたが、今朝ケンカ勃発。今年の私の誕生日プレゼントにロボット掃除機をプレゼントしてもらった。嬉しいといえば嬉しいけど、掃除をするのは私の仕事と決めつけられたようで、複雑な気持ちにもなる。ロボット掃除機は階段は掃除できないので、私がいつも階段に掃除機をかけて拭き掃除。またロボット掃除機をかける前に椅子や床に置いてあるものをどかしたり、こびりついて取れなかった汚れを後から雑巾掛けするのも私の仕事。1階と2階は私が1日置きに掃除して、3階の夫の部屋、子供部屋、私の部屋は、夫が週末に掃除する、というルーティーンになっていた。昨日、私の部屋を見たら床に結構埃が溜まっていたので、夫に「今日、3階にロボット掃除機かけるの?」と聞いた。私は2階にロボット掃除機かける予定だったから、夫が使いたい時間と重ならないようにするためだ。すると夫は「昨日かけたよ」と言って、今の私の発言は、夫が3階の掃除をすることに対する感謝を全く示していないと怒った。はぁー!?私は単純に床が汚かったから、まだ掃除がされていないものだと思って、いつ掃除する予定か確認しただけなんだけど。ロボット掃除機が掃除するわけだから、床が汚かったということは、ロボット掃除機で取れない汚れだったとのこと。私は後からそういう汚れは自分で雑巾がけするけど、夫はそういうことは一切しないから、汚れがまだ残っていただけのこと。そもそも、私が病気の息子を看病したことに対しても一切感謝の意を示さず、私が階段の掃除をしても一切感謝の意を示さず、私がロボット掃除機で取れなかった汚れを雑巾掛けしても一切感謝の意を示さない。つまり、私が家族のためにやることに一切感謝の意を示さない夫が、私に対して「お前は感謝の意を示さない」と怒る権利はない。「あなたは私に対して一切感謝しないんだから、私は、私達はお互いに感謝の意を伝えないという関係で行くのだと思っている。私はあなたに感謝してほしいという期待はもう持たないようにしているから、あなたもそういう期待は持たないでね。」夫にそう言って、それ以降、お互いに無視。男を手のひらで転がせるような女性は、ここでぐっと我慢して夫に感謝して、褒め称え、うまく操ることができるのだろうが、私はそういうことはできない。私がこれだけやっているのに手伝いどころか、感謝すらしない夫が、いい加減にやった家事に対して感謝の意を示すことは無理。やっぱり私は根本的にこの人のことが好きになれないんだろうな。この人が死んでも、相続とか、死んだ後の諸々の手続きが面倒だし、父親を失う子供達が可哀想だとは思うけど、この人が私の世界からいなくなることに対しては、寂しいとか悲しいとか感じることはないだろう。先日のブログで書いたように、とにかく相手が変わることを期待せず、そういう相手に対して自分のエネルギーを無駄遣いしないこと。相手と自分の間に境界線をしっかりと引くこと。
私は子供の頃から心理学に興味があって、今は様々な心理療法を学んでいる最中だ。先日、ナラティブセラピーのワークショップに参加したときに「問題の外在化」というコンセプトを学んだ。これは「あなたが問題なのではなくて、問題が問題なのである」という考え方である。すなわち、「その人の○○に問題がある」のではなく、「その人は問題のある状況に対応している」とみるのだ。今読んでいる認知行動療法の本でも、「解決すべき問題があるときに、その原因をその人の人格や性格にはいっさい求めません。悪いのは、人ではなくて行動であり、その行動を誘発する「しくみ」なのです」とある。以前、子育てがうまくいっていないと悩んでいた時期があり、子育てセミナーに参加したことがある。休憩時間に、セミナー講師に子育てで悩んでいることを相談したら、「それは全てあなたが問題なんです」と断言され、ものすごくショックを受けたことを覚えている。子育てに悩んでいる母親は、どうして自分は子供に優しくできないんだろう?怒鳴ってしまうんだろう?いい母親になれないだろう?自分は母親として失格かも、と自分のことを責めている。子供にとっていい母親でありたいと願っているからこそ、現実とのギャップに悩んでいる。いい母親になりたいと思っていない人は、そもそも子育てセミナーには来ないだろう。にもかかわらず、「子供にとっていい母親になろうと頑張っている」部分を認めることもせず「あなたが問題なんです」「あなたが問題を引き起こしている原因です」などと言われたら、どれだけ傷つくことか。その講師は「あなたが問題なので、ただちに私の講座を受けて子育て法を学んでください」と言い捨てた。子育ての権威がそう言うなら、きっと私は母親として問題があって、このままだと子供をちゃんと育てることができないから、この人の講座を受講しよう、と決めて、高額の受講料を支払ってしまった。今から思えば、そういう商法だったのかもしれない。子育てに自信がなくて不安感が強い母親に「あなたが問題なんです」と、とどめを刺して、自己肯定感が地に落ちたところで、講座を受講すれば何とかなりますよ、と持ちかける。ゲシュタルト、ナラティブ、認知行動療法といった心理療法を学んで、いろいろな考え方を身につけることができた今の私から、当時の私に言ってあげたい。あなたが問題じゃないんだよ。あなたは、問題のある状況に必死に対応していただけ。あなたじゃなくても、他の人でも、同じような状況に置かれたら、同じような行動を取ったと思う。あなたの感情コントロールが稚拙だとか、あなたが自分勝手だとか、そういう問題じゃないんだよ。だから自分を責めないで。問題は、そのような状況とその状況への対応方法だから、状況を変えられるような仕組み作りとか、状況を見る視点を変えることで、解決できるんだよ。
先週から体調を崩して寝込んでいた息子が、昨日からようやく学校に復帰して、いつもの生活が戻ってきた。息子が病気で寝込んでいる間は、平日、仕事を休んで息子を病院に連れて行き、週末にたまった仕事を終わらせた。仕事の合間にも息子の様子を見に行って看病した。曜日の感覚がなくなり、朝起きたときに「今日は何曜日だったっけ?」と思う毎日が続いた。自己変革の一環として、以前書いたように、副業を持とうと思っている。今の会社にどれだけいられるか、今の会社がどれだけ存続できるかもわからないし、自分の知識やスキルをもっと幅広く使って、もっと多くの人達にプラスの影響を与えられるようになりたいからだ。そういうことを考え始めたら、引き寄せの法則が働いたのか、LinkedIn経由で一緒に仕事できないでしょうか、というメッセージが来た。来週、その会社の方にお話を伺う予定。もう一社、別の会社のポジションにも応募してみた。どちらも非常勤のポジションなので、今の会社で働きながら、副業として仕事できたらいいなと思っている。心理学の勉強も進んでいる。仕事でコーチングをすることもあるのだが、そこに心理学や心理療法の手法も入れてみたいなと思っていたところ、Coaching Psychology(コーチング心理学)という分野があることを知り、ワークショップに参加してみることにした。2日間の認定コースを受講したら、Psychological Coachという認定資格も得られ、PPTスライド等も自由に使える。コーチングの認定資格はICFも含めて全部民間資格なので、資格がなくてもコーチングはできる。でも、私の場合はコーチングや心理学を幅広く総合的に学びたいと思っていたので、それが学べることが最優先で、民間資格も得られるなら一石二鳥だ。ICFのPCC(Professional Certified Coach)も検討したのだが、そちらはコーチングした時間の記録と、コーチングセッションの録音など、手続きが面倒で費用もかかる。エグゼクティブコーチ一筋でやっていくならば、面倒でもやる必要があると思うけど、私の場合はコーチングもやるけど、メインはファシリテーション・研修でやっていきたいので、他と差別化する意味でも、心理学に詳しいコーチということで、Psychological Coachという肩書きは結構いいなと思っている。週末はナラティブセラピーやゲシュタルトセラピーの勉強会にも参加している。人間を、世界を理解するための新しい見方を学んでいるようで、とても楽しい。10代からずっと、学校に合格するため、資格を取るため、仕事で必要だから、という理由で、何かのために、自分が興味を持てない分野でも半ば強制的に、我慢して、勉強してきた。50代になった今となっては、もうそういう勉強は嫌だ。興味がない分野でも必要だから、と言う理由で必死になって我慢しながら勉強しても身にならない。努力は熱狂には勝てない。これからは、将来役に立つか否かは二の次で、今自分が興味がある分野だけを楽しみながら勉強していく。
表題の本を昨日読み終えた。副題は、なぜ日本は世界一、子供を持たない人が多いのか福山絵里子著子供がいるから幸せ、子供がいないから不幸せとは言い切れない。子供がいると幸せか否かは、その子供と親によるだろう。私の場合は「子供がいて幸せだわぁ。。。」と自然に湧き起こる感情はなくて、「子供がいると、こういういいことがある。だから私は幸せなんだ!子供を産んでよかったのだ!」と自分に言い聞かせる必要があった。今でも、子供を可愛いと思う時もあれば、この子がいなかったら、私はもっと穏やかでストレスフリーな生活を送れたのかもしれないと思うこともある。息子が40度を超える高熱を出して苦しんでいる時、私は必死に看病した。息子の唇が紫色になって、青ざめて、このまま死んでしまったらどうしよう、と恐怖を感じた。その時、私は息子に、何はともあれ、生きて欲しい、元気になって欲しい、と願っていた。木曜日に病院に行った時は、尿路感染による膀胱炎ないし腎盂腎炎の可能性が高いと言われて、抗生物質の点滴を受けて、薬を処方してもらった。昨日から息子の熱は37度台まで下がってきたが、昨日から咳と痰が出るようになり、今日も学校を休んでいる。少し元気が回復してきたら、息子の反抗的な態度が戻ってきて、今朝も、私に命令口調で「薬を持って来い」「水を持って来い」「病院に電話しろ」などといろいろ言ってきて、病院からもらった錠剤が足りないと言い出して、口論になった。私もついに堪忍袋の尾がキレて、「それが看病している親に対する態度か?もうお前のことは看病しない。お前なんか死ねばいい」と言ってしまった。「それって言っていいことなの?」と息子はつぶやいて自分の部屋に戻った。「お前なんか死ねばいい」って絶対に言ったらいけない言葉だよね。それはわかっている。でも、つい出てしまった。そしてその時は本当にそう思った。こんなに必死に看病しているのに、感謝するどころか暴言を吐いて奴隷のようにこき使い、この子は何様のつもりなんだ?私はこの子の奴隷なのか?この子がいなければ、私はイライラすることもなく、怒鳴り散らして、その後に自己嫌悪に陥ることもなく、興味のない育児書を読む必要もなく、もっと穏やかに幸せに暮らせるのに、この子がいるから私は不幸なんだ、と、その一瞬は思ったのだ。息子に生きて欲しい、元気になって欲しい、と必死に看病している私も本当だし、息子がいなくなって欲しい、と思ってしまう私も本当なのだ。両方ともが私の中にある。そして、これって私だけじゃないと思う。「子供が可愛くない」「産んだことを後悔している」「いなくなってほしい」という声は、匿名だけど、ネット上にたくさん存在している。多くの母親が、子供が可愛い、子供が憎い、という相反する感情に引き裂かれる経験をしたことがあるのではないか。子供がいて幸せと思える人は、子供が可愛いと思える時間が、子供が憎いと思える時間よりも多い人で、子供がいて辛い、不幸せだと思う人は、その逆なんだと思う。私の場合はほぼ拮抗しているので、つねに自分に「子供がいるのはいいことなんだ」と言い聞かせることで、子育てへのモチベーションを維持しているのだ。
自己変革の一環としてのブログだが、火、水、と書いたが、木曜日には書けなかった。3日坊主にもなってない。。。これには事情があった。息子が熱を出して火曜日に学校を早退した。水曜日の朝になっても40度近い熱が出ていたので、近所の病院に連れて行った。その病院では「風邪だと思います」ということで解熱剤だけもらったのだが、木曜日になっても、熱は下がるどころかどんどん上がっていく。40度を超える熱がずっと続き、食欲もない。水やスポーツドリンクは飲んでいたが、そのうちトイレに行ってもおしっこが出ない状態になり、お腹が張って水分が取れなくなった。「お腹が痛い」「苦しい」と呻いている息子は、どうみても単なる風邪とは思えない。なぜか木曜日は休診の病院が多く、徒歩10分くらいのところの内科が空いていたので電話したら、発熱している場合は予約が必要とのことで、17:30に予約。息子は苦しがっていて、それまで待てないと言うが、病院は17:30より前には受診できないので、あとは救急車を呼ぶしかありませんと言われた。救急車。。。アメリカで救急車を呼ぶと軽く100万円くらいはかかる。息子の症状を見るに、まだ救急車を呼ぶ段階ではないと判断して、タクシーを呼んで別の病院に行こうと思ったが、タクシーが一台もつかまらず。。。結局、高熱でフラフラしている息子を肩につかまらせて、徒歩10分の近所の病院に17:30に向かった。発熱しているため、暑い屋外で待たされ、ようやく病院の中に入れてもらえて、検査をしたら、コロナでもインフルエンザでもなく、血尿が出ているため、おそらく尿路感染症による発熱ではないか、とのこと。息子は病院のベッドに横になり、抗生物質の入った点滴を受けた。娘は娘で足の親指が痛いということで、同じ病院の整形外科でレントゲン写真を撮ってもらう。子供達二人の受診を一人で対応していたので、私はバタバタの状態であった。19時過ぎにようやく帰宅して、急いで夕食を準備する。ちなみに私はシングルマザーではありません。専業主婦でもなくて、フルタイムで仕事をしていて、生活費も全部私が支払っています。この間、夫は我関せず、という態度で自分の部屋にこもっていた。夫はいちおう仕事をしているが、それも来月にはやめて無職になる。本人は起業するとか言っているけど、無収入の無職で、家事をやるわけでもないので、専業主夫でもない。子供が病気になろうとも一切看病せず、フルタイムの仕事を休んで子供を看病し、病院に連れていく私への感謝の言葉も一切ない。この件は一生忘れないけど、二人目の子供を出産してから一週間後くらいに、私は赤ちゃんのお世話に加えて、料理や家事をやらなければならず、過労で高熱を出して寝込んだことがある。その時、夫は看病どころか、水いっぱい持ってきてくれなかった。「お水持ってきてくれる?」と頼んだけど無視された。私は高熱でフラフラしながら、寝室から台所まで這っていって、コップに水を入れた。後からこの件について彼と話したら、「前日に喧嘩してむかついていたから、水を持って行かなかった」だと。出産直後の妻が過労で倒れて苦しんでいるのに、水一杯持ってこない。その理由が「喧嘩したから」。この時、この人はちょっと異常だと思った。先日、心理系のワークショップでASD(アスペルガー)の説明があり、「あ、夫はアスペルガーだったんだ」と気づいた。他人への共感性が低い。自分中心で相手の立場になって考えることが苦手。問題が生じても、つねに自分は正しくて、間違っているのは相手・環境だと考える。一応日常生活は送れるから、ASDという診断はつかないけど、彼は限りなくASDに近いタイプだろう。そう考えると、今までの彼の不快な行動も説明がつく。今まで、私の関わり方が変われば、彼も変わってくれるのではないか、お互いに支え合える夫婦になれるんじゃないか、と期待していた。でも、期待するたびに裏切られて失望させられ、心を傷つけられた。発達障害は治らないと言われている。彼がASDである限り、私が関わり方を変えようが否が、彼は変わらない。そう受け入れて、これ以上、彼を変えようとしたり、夫婦仲を良くしようとすることに、自分の時間やエネルギーを注ぐことをやめようと決意した。彼とは心が通わない。それは彼がASDだから仕方ない、と考えて受け入れる方が楽だ。私がど近眼でメガネがないと何も見えなくて生活できないように、彼は脳に発達障害があって、共感したり、相手の立場になって考えることができない人なのだ。そのことを受け入れて、私は私の道を進もう。これも自己変革の旅には必要な気づきだった。
自己変革というと、いきなり会社辞めて起業するとか、一人でインドで瞑想修行に出る、とか、大層なことをやらなければいけない、と思っている人もいるかもしれない。私もそう思っていた時期がある。でも、変革には、Breakthrough Innovation(ゼロから全く新しいものを作り出すイノベーション)と、Incremental Innovation(じわじわと改善を積み重ねて、結果として大きなイノベーションになる)の2種類があり、今の私が実践しているのは後者のほう。自分の好奇心に忠実に動いてみることが大切だ。それが何につながるかはわからない。もしかしたら、何にもつながらないかもしれないけれど、それでも、その時が楽しければいいんじゃない。自分のお金で誰に迷惑かけるわけでもないんだし。こういう考え方のもと、今の私がやっていること、やりたいと思っていることをリストアップしてみた。 様々な心理療法のワークショップに参加する10代の頃からずっと心理学や心理療法に興味があって、今でも図書館に行くと、真っ先に向かうのは心理関係のコーナー。私にとっては、心理療法は、自分を含め、複雑で奥深い人間を理解するための方法で、とても面白い。今はゲシュタルトセラピーとナラティブセラピーのワークショップに参加して学んでいる。 自分の本を出すこれも10代の頃からずっと頭の片隅にあったこと。作家になりたい、脚本家になりたい、と思って、そういう系の学校に通ったこともあった。商業出版となるとハードルはあがるけど、Kindleでの自費出版などは簡単にできるようなので、10代の頃からの自分の夢をかなえるために、自分の本を書いて出版したい。 自分の思い、考えを発信するこれは出版の準備にもなるし、自己変革の旅の歩みを止めない仕組みにもなる。自分が書いた文章のいちばんのファンは私自身。自分が書いたものを読み返すと、いろいろな気づきが得られるし、書くこと自体に、頭を整理したり、感情を浄化する作用がある。ブログは毎日コツコツ続けていく。今まで途中で挫折してしまっていた原因の1つは、ブログを書く時間を夜にしていたこと。夜になってしまうと、疲れていたり、他にやることを優先しちゃったりして「ま、ブログは明日でいいか」になってしまう。なので、ブログはできるだけ午前中に書く様にする。 将来独立したときに、今の会社以外に協働できる会社を探してアプローチする日本には定年制度があるから、今の会社が安泰だったとしても、退職する日が必ず来る。そして、今の会社は安定した大企業ではないから、その日は予想以上に早く来るかもしれない。そうなった場合、私はフリーランスとなり、複数の会社と契約して仕事をしたいと思っている。将来、協働できそうな会社2社にコンタクトを取っていて、また現在フリーランスで活躍している人にも話を聞いている。 若返りアラフィフになって、自分の容姿の衰えに愕然とするようになってきた。外見と内面は連動すると思う。自分の外見に自信がなくなると、内面の自信にも悪影響があるような気がする(私の場合はね)なので、今までよりも積極的に若返りに取り組むことにした。瞼が弛んで開きにくくなる眼瞼下垂の症状があり、おでこの筋肉を使って目を開けていたため、おでこには横じわがくっきり。これを改善するために、眼瞼下垂の手術を受けた。保険適用だったので5万円ちょい。両目とも赤く腫れているけれど、腫れが引いたら、目が開けやすくなっておでこの横じわも薄くなることを期待している。ほうれい線もずっと気になっていて、顔の筋トレをしても効果がなかったので、ヒアルロン酸を注入してもらったら、だいぶ薄くなった。そしてボルニューマという高周波をあててもらって、顔全体の引き上げ。切り刻む系の美容整形はしないけど、ボトックス、ヒアルロン酸、ハイフ、ボルニューマという美容施術は、定期的に受けて、容姿のメインテナンスをしていく。若返りといえば、筋トレも必須。眼瞼下垂の手術後1ヶ月はハードなトレーニングはできないので、今は散歩くらいしかしていないが、数週間後には筋トレも再開する。 読書、動画などで勉強いちばん気軽にできるのがこれ。本はできるだけ図書館で借りたいけど、予約件数が10件以上ある場合はアマゾンで買う。全然役に立たなかった子育てサロンを解約して、毎月3,300円が浮いたので、その分は全部書籍購入代に回している。このブログでも、読書や動画などで参考になったことを随時書いていく予定。
ずいぶん間が空いてしまったが、ブログを再開することにした。タイトルやプロフィールも変えてみた。ブログを再開する理由は1)自分の「書く」筋肉を鍛え直す。2)自分の頭の中でモヤモヤしていることを書き出すことによって、頭の中を整理して、セルフカウンセリングに役立てる3)似た様な状況にある人へのヒントを提供する3)は副次的な目的で、メインは1)と2)。ようは自分のためにブログを再開することにした。ここ5年くらい、ずっと階段の踊り場で足踏みしているような感じだった。その間、育児も仕事もしていたし、アメリカから日本への引っ越しも経験したから、それなりに忙しい日々ではあった。でも、仕事への情熱は薄れ、惰性でやっている感じ(20年もやっていれば、惰性でできてしまうことも多いのだ)。自分が成長している実感が持てず、自分よりも若い人達が次々と起業したり、転職したり、副業で華々しく活躍している様子をみて、私はこのままでいいんだろうか、、、と危機感を持っていた。今の会社だっていつまでもつかわからない。また50代ともなると、定年もそう先のことではなくなる。今の状態で50代を過ごすと、末細りで冴えない60代になってしまう。「何であのとき挑戦してみなかったんだろう?」と後悔してしまいそうだ。だから、私は、階段の踊り場で足踏みするのをやめて、とりあえず、目の前の階段を登ってみることにした。登っているのか降りているのかわからないけど、とりあえず一歩ずつ足を前に動かしてみることにしたのだ。どこに辿り着くのかはわからないけど、とりあえず動いてみなければ何も始まらない。このブログは、そういう自分の足跡を綴り、こういう自己変革のパターンもあるんだなーと後から振り返れる様にするための記録です。