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‐韓国に進出した日本の独占企業の話 その2(「韓国」を創造したアメリカ)‐

 

 

アメリカ政府・マクナマラ国防長官は、下院軍事委員会で次のような証言を行っています。

 

東南アジアで「米国が主として責任を負っている国は韓国だが、フィリピン、台湾、日本も援助する責任がある。・・・・とくに日本は今や経済的にその軍事力を維持することができ、さらに東北アジア全域の安全に寄与するため、その軍事力を拡大する能力を持っている」(『ロイター電』 64年1月27日)

 

このように、アメリカの帝国主義的な極東管理の『枠組み』の中で、日本は東南アジアへと進出しようとしていました。

 

それは池田東南アジア訪問を契機として、外務省の東南アジア政策は、地域の重点として韓国・台湾・フィリピン・インドネシアにまたがり、具体的にはインドネシアに対する1200万ドルの借款借与台湾に対する2ヵ年3000万ドル韓国に対する無償援助と経済借款、昭和38年度分、70億円となって表現されています。

 

日本独占資本の東南アジア市場への進出は、1958年頃を境にして増大し、60年ごろには「対米市場」同様に大きな比重を占めるようになりました。

 

これは、対米依存から東南アジアへの重点の移動が行われ、成果を収めていることを示しています。

 

この東南アジアに対する商品輸出の増大は、国家資本輸出を中心とし、それに民間資本の資本輸出も国家資本と密接に結びついて進出しています。具体的には「海外投融資」に最もよく表現されていて、1962年12月に成立した『海外経済協力基本法』は、政府独自の海外投資事業を推進する機関として成立しました。同法は「海外経済協力基金」を設置し、政府の直接出資を行う機構を作り上げました。

 

国家資本の輸出形態には、賠償に伴う経済援助日本輸出入銀行の長期輸出金融海外経済協力基金による海外事業投融資円借款、または国際機関への出資など、多岐にわたります。

 

1964年『通商白書』によれば、東南アジアに対する進出は「1963年の東南アジア諸国(東アジアを含み、共産圏諸国を除く)との貿易は、輸出16.1億ドルで前年に比し9.8%の増加、輸出は12.1億ドルで前年に比し25%の増加であった」として、

 

「63年の輸出の内、賠償によるものは5.2百万ドルを下回り、AID資金による輸出(為替ベース)は前年に引き続き減少し、1.1百万ドルとなった。この結果輸出の内、賠償およびAID資金によるものを除く通常輸出の伸び率は、前年比11%の増加となった」としています。

 

※AID‐いわゆる『政府開発援助』(ODA)

 

 

この通商白書に示された現状が、日本独占の東南アジア進出を最もよく表現しています。

 

進出の基本的な方針として、同白書はさらに「我が国としては、東南アジア市場が我が国総輸出の約3割を占める大きな市場であることを考え、東南アジア諸国の輸出の拡大については、国連貿易開発会議(CATT)などの場を通じ、あるいは二国間の方式によって可能なかぎり協力することが肝要である」

 

このような日本独占資本の東南アジアへの進出は、かつて潰えた夢でもあった「帝国主義の復活」でもあり、それを経済的に成しえる環境となった現在、その後ろ盾であり、最大の庇護者でもあるアメリカの軍事力と経済力に威を借りて、日本独占資本の海外市場開拓を、それらと結託して行うことによって、物事を進めていきました。

 

例えば、鹿島建設のようにアメリカの銀行からの借款を受け、それを基礎に外地工事に進出しようとする動きもあります。

 

結果的に、これらの日本発の独占資本群の本格的な「海外膨張」は、アメリカの形成する東アジア地域のブロック的な政治・経済参加という形で提起され、東南アジア、特に韓国(南朝鮮)に対する干渉が酷くなりました。

 

日本は韓国に『漢江の奇跡』を起こさせたとか、アジア地域の経済的独立に貢献したと、呑気に自画自賛している場合ではなく、結局はアメリカの極東戦略の「最も使い勝手のよい手駒」として、手のひらで踊らされていたに過ぎません。

 

以上の事実を鑑みて、今までの西洋的植民地経営の手引きに則って、「直轄領」として管理するよりも、「傀儡国」として彼らに自弁させたほうが、遥かに『安上り』に済むわけで、経済的ナショナリズムを満足させた日本人の頭の上で、アメリカ人たちがほくそ笑む構図が、なんとも醜悪ならないものを感じます。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

 

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