「日本を理解」世界学んでこそ 高校の歴史教育の在り方



学び語る


信州大学教授(中国近現代史)


久保 享さん



選択科目の高校日本史の必修化について、下村博文文部科学省は1月、「前向きに検討すべき課題」と述べた。では世界史は。グローバル時代の歴史教育はどうあるべきか。





従来の「日本史」「世界史」を統合する「歴史基礎」を新設し、必修とすることが適切だ。

日本学術会議の分科会の委員長として、高校歴史教育のあり方の提言に盛り込んだ。



「歴史基礎」は、現代日本の理解に必要なアジア太平洋地域の近現代史に重点を置き、「なぜ日本に平和憲法が生まれたのか」「朝鮮半島はどんな経緯で南北に分かれたのか」といった問いを立てて解答を試みるような、考える学習を想定している。


現在、小中の歴史教育が日本史中心なのに対し、高校の地理歴史科は世界史が必修で、日本史と地理は選択。世界史は高校で初めて学ぶ科目で、もし世界史でなく日本史を必修にして、日本以外の歴史を学ぶ機会を失う人が出てくるのは大問題だ。全体の単位数を増やすことが難しければ、統合・再編を考えるべきだ。



新設に当たり、まず課題は大学受験とのかかわり。手を抜かずに学んでもらうためにも受験科目に位置づけたほうがいい。ただし暗記科目にせず、「考える力」をみる入試制度への抜本的改革とセットで進めることが重要だ。調べ学習を前提にした教科書は、日本にはまだ少ない。議論させながら授業を進めるには、先生の力量も、時間も要る。


「日本人だから日本史必修」との声があがるが、世界を学び、グローバルな視野を身につけなければ、日本を理解はできない。歴史教育は日本の市民が世界で生きるために必要な教養を身につける場であり、世界に通用する歴史認識が求められる。その内容が時の政治家の都合で左右されることがあってはならない。(聞き手・片山健志)



朝日新聞 2014年(平成26年)9月25日 木曜日 13版 教育 第30面




このブログでも、解説にあたってのタイトルの説明通り、「歴史学を学ぶ大切さとは何なのか」ということを主眼に置きながら記事制作に努めてきた次第ですが、その本質は多様な世界観の構築と、一国主義に凝り固まらない「道具」としての歴史学の廃止、ある独断的思考による学問への冒涜、必然的にその崩壊をうながし、最終的には自らの限界性を露呈するかたちとなります。



そういう意味で、今回の記事は実際の歴史学者の久保先生のご提言通り、今日における日本の歴史教育の在り方と行きつく先を憂慮し、普遍史と個別史、つまりそれは世界と日本におけるそれぞれの歴史を同期することによって、変わりゆく現代への思考力を養う意味においても重要なことだとされました。



上述に逆行する形で、現職の下村博文文部科学省は、高等学校における日本史教育の「必修化」を検討し、近代のナショナリズム教育さながらの教育制度の復活を目論まれているようです。氏はかつて、今年の4月14日の教育勅語の原本が50年ぶりに発見されたというニュースにおいて、「至極まともなことが書かれている」と述べて物議をかもしました。そんな彼を含めた今の自民党中枢の執行部は、おととしの年末選挙における党公約において、アジア諸国との歴史関係に配慮する「近隣諸国条項」を見直すとしました。その理由については、自虐史観や偏向した記述が多いとして、「子供たちが日本の伝統文化に誇りを持てる教科書で学べるよう」にとすることを前提に目標設定を行なったとしました。



はたして彼らが理解する「自虐史観」とは何なのか、どうにもこうにも素人たちが歴史学という「科学の家」に土足で忍び込んで、中の大切な理論や記述を全部壊して自分たちの好むものへと改変してゆくものだと思います。つまりそれは、概ね科学主義を排した自己満足に基づく「完結した国家自叙伝」なるものであり、俗に「つくる会」が提唱する歴史を「物語」として捉え、都合の悪いものは一切切り捨てる形での歴史認識の構築は、目を覆いたくなるような惨状であります。



そこから類推すると、教育勅語に関する問題も「道徳教育の一環」として現実的に浮上してくるわけであり、経典には、「基本的人権」、「個人としての自由や権利」も一切書かれていません。「上から目線」、「お前たちはこのように考えよ」、「このような生き方をせよ」と言っているだけで、「皆さんにはこんな自由も権利もあります」、「基本的人権も保障されていますから安心して自分の意見を言いましょう」、などといったことは書かれていないのです。


教育勅語に支配された日本の学校教育のなかで、「基本的人権」や「個人の自由や権利」が教えられる機会がなかったので、日本が人権や自由が無視される社会となり、軍のなかでは不条理や新兵に対する虐待行為が罷り通り、それを当然と考えるようになった兵士たちが、占領地の住民や捕虜に対して、戦争犯罪を平気で行なうような状態に立ち至ったわけであり、その点からすれば、教育勅語の内容は戦争犯罪のひとつの要因であったと思われます。

そのような不条理も含んだ上で、単に「日本人だから日本史必修」という問題は極めて深刻であり、これらは主に19世紀に確立した200年以上も前の陳腐化しつつある古い国民国家的な考えであり、いやそもそも「日本人だから」という論理そのものに対する批判は一切行われず、巷であふれる無条件な「愛国心」への検証、近代ナショナリズム時代を経て、もはや無意識レベルにおいて一般化してしまった事実に対して、人間本位の存在論への問いかけこそ、それは「国民」やら「民族」らにとらわれない新たな思考で、現代の普遍混沌化した世界認識への足がかりとなり、日本で暮らすにおいて素朴な地域性はゆるやかに意識しつつ、前述の考えと併せもつことが重要だと思います。



伊藤先生も何度もおっしゃられていたことですが、誰しも「日本に生まれたい」と思って日本に生まれてきたわけではありません。それなのに、日本人として生まれたことに「特別な意識」を感じる、それは素朴な田舎の風景と重ね合わせて思い起こされる感情でもあり、ここで「日本人」という「後付けの定義」に気づくことができずに、大きな思考的陥穽におちいってしまいます。


詳しく述べますと、日本人という定義について、さらにもっと踏み込んで「民族」という定義につきましても、19世紀に明治政府が作り出した「造語」であり、本質的には全く空虚な言葉であります。つまりそれがあたかも、実際のように存在して本質論的に語られることがよくありますが、単に「とある文化圏で育った人」と訳せば結構なことであり、それ以上もそれ以下の意味はございません。


これは帝国主義の時代に、各国が自国の民衆を従順な「国家の奴隷」と仕上げるためにある種の「洗脳教育」が行われて、「民族」という色分けをもってして敵と味方に分け、それにもとづくナショナリズム教育を確立していきました。


本記事の主題のひとつでもある「一国史教育」であったり、文化的にも言語教育的にも体制賛美的に徹底的に叩き込まれました。



日本においては、戦前の「皇国史観」が最筆頭であり、何百歳も生きた天皇を平気で信じこませたり、古事記や日本書紀などの「フミ」(史)の教育が貫徹されて、ありもしない「任那日本府」像や「神功皇后の三韓征伐」などがあります。これらは主に、国粋的国学者の間でもてはやされてきたものですが、近代のヘーゲルなどの西洋ナショナリズム思想と皇国主義(中華主義×国学主義)などが相互に合わさるかたちとなって、あの忌まわしい時代を駆け巡ってそれは現在においても根強く残り、今再び勃興しつつある状況にまで醸成しつつあります。


そうした「過去の失敗」を真摯に受け止めつつ、新たな歴史学への学びの在り方を、僭越ながら私なりに提出しますと、上述で語った「国民」や「民族」とは、19世紀の近代において「歪められた定義」としてはじまり、それが全世界においてあまりにも普遍化・一般化してしまったものだから、それより前の時代(古代・中世・近世)における歴史上の各集団の「色分け」として使われるようになり、歴史学者たちはその淵源や本質を知っているので、誤用に気を付けつつ「便宜的」使っておりますが、それを知らない人々にとっては「絶対的な種別や色分け」であったりして、真なる現実とは違った歴史解釈を行ってしまう恐れがあります。



世界にはびこる後天的に定義づけられたあらゆる属性や人種などは、所詮は人間が都合よく解釈するために作りだしたものに過ぎませんし、長い歴史の中でも、はたまた歴史学そのものを問い詰めていくと、世界の全ての大陸や島々は本来「名もなき無名の土地」であり、そこに人間たちが名前を植え付けていくことによって、「歴史」ができあがり、最終的には本質的な独断論を振りかざした国家・民族論というもに行きつき、無責任な侵略や殺戮の「口実」となってゆくのです。


このような事態に対して、ある種シニシズム的なドライな考えで見つめることは大切かと思います。世界の歴史の中で、「名もなき土地々」における「名もなき集団」たちが、右往左往移動しながら人々との交流をもってして関係を紡いでゆく、つまり国家や民族といった「後天的な解釈」から抜け出して、前にも述べた「人間本位」の認識論と申しましょうか、名称を付けないと何が何だかわからなくなるから、仕方がなく便宜的に用いられてきた「国家」や「民族」という言葉に対して、やもや19世紀に絶対化した「民族本源論」の思考は、本当の意味での歴史を空虚たらしめる陥穽であり、「間違った色分け」をする結果になって現実からどんどん乖離していってしまいます。



そうすると、歴史学を学ぶにあたって最も大事なことは、たくさんある歴史的事実を学ぶことも大切ですが、それをより確からしく理解するための「歴史学の学」(史学概論)、これは史学科の2年目で習う教科であり哲学を拠り所とする学問ですが、歴史を考えるにおいて極めて本質的な思考を提供してくれる大切なものです。


また、その他の学術においても、歴史学とセットとして学ぶべきものとしては、民族学や文化人類学などなどの独立した専門科学を勉強することも大いに奨励されるべきことでしょう。前者については、その大家であるベネディクト・アンダーソン教授の研究を学ぶことがおすすめです。



長くなってしまいましたが、一国史教育による世界遮断という危険性と、時代の主潮と合わさる新たな教育方針を、記事の久保教授の文章を参考してしながら考えてみました。




<参考資料>


・朝日新聞 2014年 9月25日 木曜日 記事

・拙ブログ『-「未開人の経典」、『教育勅語』に関する所感- 』記事

・同『-歴史を政治の慰みものとする阿呆どもについて- 』記事