幾万の思想
私は本が大好きなのだが、近頃ほとんど読んでいない。
本も読まずに何をしているかというと、インターネット、である。
昨日もブログを書こうとパソコンを立ち上げたら、ついついネットの波に乗ってしまい、様々な人たちの、多様な考え方に触れていたら、頭がこんがらがって疲れてしまい、何だかぐったりしてしまって、結局書くことができなかった。
いろんなブログを読んでいたら、当たり前のことだけれど、世の中にはいろいろな人がいるのだなぁと改めてびっくりしてしまった。
私などには逆立ちしても考えられないような難しいことを書いているブログもあれば、日常生活の愚痴のようなものもある。
基本的にブログというのは、良いも悪いも自己顕示欲の表れだと思っている。
人に見せる必要がなければ、自分だけの日記に書いておけばいいのだから。
私も含め、自分を誰かに見て欲しい、自分をわかって欲しいと思うから公開するのだ。
ブログの数だけの自己顕示欲がインターネット上に存在していると思うと、考えただけでクラクラしてくる。
一体どれだけの数の人がブログを書いたり、ホームページを作ったりしているのだろう。
あまりにたくさんの考え方があり、各々がそれを発信している。
その中のほんの一部だけれど、自分とあまりに違う人々の思想に触れると、私はくたくたになってしまう。
自分が普段感じ、考えていることがほんのちっぽけなものであること。
そんなことはとっくに知っているはずなのに、実際に目に見える形となって現れると、その存在感に圧倒されて、自分の存在がひどく心許なくなって来る。
一瞬、自分がどこかに置き去りにされたような感覚になり、自分の正しさが不安になる。
元々そんなものは無かったのかもしれないけれど、でも少しはそれを頼りに生きてきたのに。
私は本屋に行っても同じような状態になることがある。
私は本屋が大好きで、人生で一番多く時間を過ごした店は恐らく本屋なのだが、にもかかわらず、本屋に行くと大抵疲れてしまう。
大きい本屋ほどいけない。
何万冊もの本が並ぶような大型の書店に行くと、タイトルを見ているだけでも、その幾万の思想に触れたような気がして、自分の情報処理機能が働かなくなり、脳内はごった返しの状態になる。
そして心細くなってくる。
立ち読みなどする時は尚更だ。
雑誌に文庫本、漫画に写真集など片っ端から目を通していると、興味のある本しか手に取っていないはずなのに、その多種多様さにくらくらしてしまい、しまいには気持ちが悪くなってくる。
体調が悪く、ゆっくり本を読みたいのに手許に適当な本がない、という時などかなり困る。
新しい本を買いたいけれど、本屋に行けば更に具合が悪くなるのは必至だ。
私はこれを「思想酔い」と呼んでいる。
それでも何とか好きな本を選んで家に帰ると、その酔いは治まる。
買った本を本棚に並べる。
もちろん本屋の比ではないけれど、それでも棚には幾百のタイトルが並ぶ。
けれど少しも不安にはならない。
そこには自分の好きな本しか並べられていないからだ。
その様子に私はうっとりする。
そして安心する。
ああ、自分に、帰ってくることができた。
自分の選んだものだけが並ぶ本棚は、いわば自分の分身のようなものだ。
これまで読んで、私の中に蓄積され、私自身を構成してきたもの。
ここにある本たちは私の存在を裏付けてくれる。
いろんなものに触れることはとても楽しく、刺激的だが、同時にもの凄くエネルギーが要ることだと思う。
自分というものが確固としていないと、どこに意識を定めたらいいかがわからなくて、気持ちがふわふわ浮いてしまい、吸収するどころか自分が吸い込まれてしまうような気さえする。
出会うはずのなかった人たちの、触れるはずのなかった思想。
インターネットが普及したことで、そういったものに、いとも簡単にアクセスすることができるようになった。
当然、それまで見るはずのなかったものに時間を割くことになる。
時々、全く知らない人の写真や文章を見ていると、ハッと我に返ることがある。
―どうして私はこれを読んでいるのだろう?
この人のことを私は知らないし、これから会うことは恐らくないだろう。
何のために、これを見ているのだろう?
興味がわかなければ次にアクセスすることはないだろうけれど、実際、何の接点もないような人のページでも、見ているだけで結構楽しい。
だからついネットサーフィンをしてしまう。
たぶんそれは、パソコンの画面上だけの繋がりでも、その向こうに生きた人間の存在があることを知っているからだと思う。
当たり前だけれど、それは必ず誰かしら、生きている人間が書いたものだ。
どんな大嘘を書いていても、どれ程繕っていたとしても、必ず誰か、生きている、生身の人間が、画面の向こうに存在している。
それを知っていて私は、自分ではそうと意識していなくても、誰か、何かと繋がりたくて、読んでしまうのだと思う。
私は自分をアナログな人間だと思っているが、それでも、ネット上の繋がりにはすぐに慣れてしまう。
簡単に、一瞬で繋がる。
そしてまた、一瞬で別れる。
見たくなければ二度とそのページに行かなければいい。
ものすごくデジタルな世界だと思う。
0か1か。そこには曖昧な、割り切れないものは存在しない。
それでもやっぱり、どんなにデジタル化されていても、それは人間同士の繋がりなのだと思う。
書いているのも、読んでいるのも全て人間で、そこに存在しているのは生きた人間の、生の感情や、人間関係、なのだと思う。
そこに生まれた感情は、決して割り切ることができない。
きょうも見えないだれか、にアクセスする。
画面の向こう、本当にそこに誰かがいるのか、実感がわかない。
それでも画面はただそこに存在する。
そしてまた、ぱたんと、パソコンを閉じる。