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新也くんと太郎くん



藤原新也の「南冥」という写真集を開いた。

母に借りたままほったらかしにしていたのだった。


天地がひっくり返ったような衝撃を受けた。

その写真集のはじめに収録されている彼の文章に、やられてしまったのだ。


今まで読んだあらゆる文章の中で一番の文章だと思った。


私は活字を読むのが好きだが、実際、文章というものがよくわからなかった。

内容が面白いか、否か。読み易いかそうでないか。

私の、文章に対する感じ方の基準はそのくらいしかなかった。

文章が上手いとか、いい文章、悪い文章というものがわからない。

勿論、基準は人によって様々あるのだろうが、自分なりに、これはいい文章だな、と思ったことがなかったのだ。


けれども、たぶん初めて、文章そのものを好きだと感じた。

内容も文体もクールでめちゃめちゃ格好良くてキャーキャー叫びそうだった。ていうか叫んだ。

藤原さんが若くして放浪の旅に出てから、彼の写真、また彼自身の意識の変容していく様子が綴られているのだが、無駄が削ぎ落とされ、あざとさのない、自然に流れるような文章だった。

乾いた地面に水が染み込んでゆくように、この文章は私の中にあまりに自然に入り込んで来て、自分でもびっくりするくらいだった。


私は藤原さんの「西蔵放浪」という本も母から借りパクしておきながら、面白いけど、何か難しいなぁ。などと言って途中で放り出していた。

彼の「メメント・モリ」という本もかじり読みしていて、その中の「ニンゲンは犬に食われる程自由だ」という言葉は私の座右の銘で、ノートに何度も何度も繰り返し、その言葉を綴っていた。

にもかかわらず何故か、彼の名はさほど深く私の中に刻まれることはなかった。


けれどやっと、出会ったのだと思った。

世界にこの人がいてよかった。

出会えてよかった。

他のどの時でもなく、私は今、藤原新也というひとに出会ったのだ。


もう一度読み返してみたら、何故か熱いものが込み上げてきた。

悲しいのでもない、苦しいのでもない。

訳の分からない感情の塊が、喉のあたりでつかえているのか、とけているのか。


お母さんごめんなさい。もうこの本は返しません。たった今私の本になりました。

こんな良い本持っていたのね。

いつもお説教ばっかりして悪かった。


母は写真に惹かれてこの写真集を購入したらしいが、私は正直写真というものがよくわからなくて、だからこの写真集の写真もよくわからなかった。

これまで何となく好きな写真、というのはあったけれど、写真にもの凄く心を動かされたということはまだないような気がする。

私は平面デザインが好きで、限られた平面の空間をどのように使うか、という考え方が好きなのだけれど、もしかしたら写真をそういう風な見方でしか見ることができていないのかもしれない、と思う。

画面の中での配置の面白さだとか、色の良し悪しだとか、それくらいの判断の基準しか持ち合わせていないのかも知れない。

もちろんそれらも写真の大事な要素ではあるのだろうけれど、それ以外の何か、があるような気がして、でもそれが一体何なのかがわからないのだ。


この「南冥」の文章の中で彼は、

「私の視線は一定の焦点を失い、曖昧なものになった。

しかしその曖昧さは世界をあるがままに受け取るには最良の方法だった。

私は世界に対する『視座』を失ったのだ。

そして、失いながら、会得した」

と書いているのだけれども、その「世界をあるがままに受け取るための曖昧さ」を会得していなければ、彼の写真を理解することはできないのかもしれない、と思う。


ひと月程前にちらっと見たNHKの「日曜美術館」で岡本太郎の言葉を紹介していたのだけれど、その言葉で、私がそれまで写真というものに対して抱いていた疑問が7割くらい解けたような気がした。

それは、

「写真とは、偶然を偶然捉えて必然化することだ」

というものだった。

がああああーーーーん!!!!

私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

そ、そそそそうだったのか!!!


同時に、私がどうして写真をわからないと思っていたのか、という根本的なことがわかったような気がした。

写真は偶然、そこに存在したものをその瞬間、カメラにおさめるものだ。

用意されていた被写体であっても、同じ瞬間は二度と訪れない。二度と同じ写真は撮れない。

写真の技術的なことも私はわからないけれども、技術的なことを除けば、写真には、それを撮った人物を裏付けることのできるようなものは写っているだろうか?

その人が、その瞬間、あるいはそれまでの人生で、何を思い、何を考えたのか。

出来上がった作品から、その瞬間、その場所でそれを撮ったことの必然性を感じることはできるだろうか?

絵やその他の多少の時間をかけて築き上げるアートなら、作った人間の意図を形にすることができ、受け取る側もそれを感じることができるだろうということは想像できる。

しかし、偶然居合わせた瞬間を切り取る写真という形態でそれを表現すること、そして作品にそれを感じることは可能なのだろうか。

私が写真をわからないと感じていた理由はきっとそういうことだったのだと思う。

岡本太郎氏の言葉で、その疑問と解答が一度に明確になったような気がした。


それから、「メメント・モリ」の帯の裏に掲載されていた読者コメントに、「哲学と叙情がメカを媒体にして結晶することを信じていなかったが、その気持を今後改めたい。21歳男性」とあったのだが、21歳(当時、同い年か~)にしてはなかなかに老成されたコメントであるぞよ、と思ったと同時に、なるほど、もしかしたら私もどこかでそう思っていたところがあるかもしれないと思った。

うまいこと言うひとだ。感心。


私が知りたいと思っていたのは必然性、ということだったのだ。

たぶん、私はアートに「必然であること」を求めていたのだった。

そして写真に写っているものはその瞬間、その場所に存在した偶然でありながら、必然性を帯びていなければいけなかったのだ。


私はそれを、実際に写真を見て感じたことはまだ、ない。

けれども、今現在のように、わからないと思いながらぼんやり見ていることはもしかしたら必要なのかもしれない。

わかったと確信してしまったら、私の世界は閉じてしまうかも知れない。

世界はわからない。

私にはまだ、何ひとつわからない。

私はまるで、まだ目もあかない赤子のよう。