昨秋から認知症治療「リコード法」を実践し始めた母の変化を、少しだけ書きたいと思います。また改めて詳細を書いていきたいな、いくべきだなと考えていますが、もう少しお待ちください。
…が、母の前に、まず昨日の母の様子と、「私」の変化をお話したいと思います。
母は「誰が死んだのか」を1回だけ混乱し忘れましたが、あとはしっかりと認識し、母親である母の姉(私にとっての叔母と)と旦那さんのことをしきりに心配していました。認知症特有の繰り返しではなく、親類としての嘆きだったと思います。
その後、外に出てお散歩をしようと思ったのですが、なんだか私たちの心をそのまま空にしたような、どんよりと雨がふりそうな午前。いつものように長いお散歩もできず、近所の小さなスーパーに片道5分かけて歩きました。「1日20分以上は歩かせなくちゃ」と少し前の私は思っていましたが、最近はちょっと肩の力が抜けています。
昨秋、母の認知機能が急激に悪化し、それに抗うために11月末から取り組み始めた認知症治療「リコード法」。
未だ日本ではどんなお医者でも、たとえリコード法認定医のもとでもきちんとした検査・治療ができなくて、ストレスが溜まって、毎日やるべきことが多すぎて介護鬱になって、心臓と胃とが痛んで仕方なくなってしまった私。
けれど、最近では「できないことはできない。やれることしか、結局やれない」の精神になったというか…前より余裕ができました。といっても、まだ夏物も出せていないし、私個人のことをほとんどできないままですけどね。
もしかすると、少しだけ料理ができるようになった、というのもあるかもしれません。実はリコード法を始めるまで、私は包丁もぎこちなくしか使えませんでした。けれど、今はサクサク、恐れずに切れます。キンピラも苦じゃありません。まだドレッシングのレパートリーがなく、そこは苦労していますが、いつの間にか料理はそこまで苦痛ではなくなりました。リコード法では食事は重要。だからその分ほんの少しだけ苦労が減ったように思います。
「いつの間にか」
それは、母にも言えるように思います。昨秋に交わした、友人シスコちゃんとのメールを読み返してみると、「母はのっぴきならない状態」でした。
2017年10月24日に交わしたメールの一部です。
シスコちゃんの本名とアイコンをざっくりと隠しました。もっとたくさん悲しいメールがあるのですが、ひとまずはこちら。中の添付写真の会話は、父とのものです。
このままでは一緒には暮らせなくなってしまう。しかも、その日は近い。
私は父のケアマネさんにも「施設を探し始めたい」ことを伝えました。実際、どんなものがあるのかを少し話したりもしていました。
最近では普通に生活している母。たまに同じことを聞いてきたり繰り返し発言して、私たちをイライラさせますが、概ね問題ありません。昨秋、妄想にかられていた母に、確かに私と父は悲嘆に暮れていました。
「そんなこと言われてない!」
「嘘つき!」
昼に夜に父と口論し、夕方は私の携帯に電話をかけて夕食が作れないと嘆く。
12月1日「認知症患者の自炊 1人で大丈夫?【認知症ごはん10】」
そして2018年4月。
詳しくは、認知症&ごはんカテゴリー
私がヒーヒー言っている間に、母はいつの間にか、こんな料理を出せるようになっていました
昨年の秋、そんなひどい状態であったことを忘れていました。
昨年12月5日、そして今年4月、2度MMSEを受けた時、点数は横ばいの18点。先生には「よくなっていませんね」と言われてしまいましたが、数値では測れない、回復を遂げていると母を見て、そして自分自身の心を見て感じています。
もちろん先月には「すわ、徘徊か!?」事件も起こしています。アップダウンはあるけれど、全体的なカーブとしては上昇しているように私は思っています。
もちろん、これからもいろいろ苦労すると思います。
なによりリコード法は、ずっと続けていかなくちゃいけない。
だから、これからも私はできるだけ自分を大切に、けれどしっかりとリコード法を続けていかなくちゃいけません。
ただ、少し、結果を自分の中で把握できたことで、それをモチベーションとして頑張っていけるような気がします…が、自分で自分のハードルは上げたくないので、「気がしている」にとどめておきたいと思います
さて、お仕事お仕事!素敵な一週間になりますように!