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『概要~グリーンを立ち上げる事になった経緯~』
一見、五体満足のに見える代表が、更に3回の医療事故や処置の不具合でボロボロの時、にっちもさっちもいかなくなって、区役所で「身体障碍のコミニュティって無いですか?」と訊きに行き、
「解からないですね~、でも金杉橋に『障害保健福祉センター』(ヒューマンぷらざ)という所がありますよ、そこに行けば何か情報が得られるかもしれません」と区役所から教わったセンターで、人生回復のリハビリに従事している中、
いよいよコレから又社会復帰という所で、・・・
(↓東京パラリンピックの『 灯 』が障害保健福祉センターへ来た時と、ブルーインパルス)
1週間しか塗ってはいけないステロイドを謎に4週間塗らされ、末梢が変色する程の激痛で、更に障碍の上に障碍を負い、
(薬害か?そうではいか?を問わず100年後・200年後、私と同じ薬害が日本だけでなく人類に起きない様に国や薬事審査会・PMDAに報告する義務が医療人には有るが、「人は」伝えていく事は大切だと思うが、
医療従事者は同業を庇い
・「副作用と因果関係が証明されたらな!!」
・「副作用ではなく副反応と言いなさい!!」
と何処かで聞いた様な台詞を言われ
心ある薬剤師さん達や医療従事者さん達に圧力が掛かかったり、飛ばされたりして痛みで困っている最中・・・)
毎朝・毎晩、四六時中激痛にのたうち回りつつも、障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)の支援担当から「何か目標を持って日常を送りなさい」と言われていたが、
(同時期、に私もそれは解かってはいたんだけれど・・・)
今後どうしようかなー と、4度目の医療事故で悩んで障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)1Fのソファーで考えている時、
ふと目の前で純真・無垢で作為の無いアクティの子が「何か良いチラシは無いかなー」って独り言を呟きながら、チラシを探している姿がなんとなく遠くから目に入ってきて、”この子達の為に出版物を作れたらいいだろうなー”って考え、
↓
食品関係の出版社に居た私には出版やメディアしか無い!と、障碍への理解を拡める為のリーフレット「Green」を製作する活動を始めると、(障碍・健常の枠を超え)段々と協力をして下さる仲間が集まってきて下さった。
そして9月ぐらいから痛みに苦しみながら作成を始め、(痛みに苦しみながら)令和3年11月19日に第1号を完成させ、
「障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)」へ8部置いて頂く事を皮切りに、令和7年1月現在は区内の公的機関6カ所に5部づつぐらいだが『配架』させて頂いている。
この時から、多くの人が一気に集まり、協力をし出して下さり出した。
(更に令和7年3月に社協さんとも話し「立ち上げ日を11月19日にしよう」と決め、4月に障害保健福祉センターにも連絡)
(利用者の作品としての所もあるし、残っている施設もあれば、刷り直して『重版』が必要な施設もある!!)
その後も無償で出版活動を続けていたが、
日々のやる事が見付かったからといって、日常の痛みが取れる訳でもなく、
・帰宅すれば「痛い」、「痛い」と繰り返し、
(現実が辛過ぎて苦しむ家族からは「『痛い』と言うな」と言われる繰り返しだが←ペインクリニックのお医者さんは「外で痛いって言えないのだから家でぐらいは痛いって言わせてあげて下さい」と・・・)
・朝方は家族が口を押さえ、”もう、このまま殺されてしまうのかな”って
・土日祝日は、障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)や、10数年前の2度目の医療事故の時、その時も隠ぺいで区から行かされていた『あいはーとみなと』さんへ行かない時は、行く場所も無く、家に居ても「激痛」を訴えるだけで、
精神の人は土日祝日「あいはーとみなと」さんがあるけれど身体・知的、その御家族には完全に無い!!と、身を持って困り『解決策』を探し続けていた時、
『10人集めて団体の許可が降りれば障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)の部屋を借りる事が出来る』と聞き、
その日から、
同士や賛同者を探して、本当に困っている現状を話して歩き(御父兄にお手紙を書いたり・・)、
同じ様に居場所を必要としている三障碍(←身体・知的・精神のこと。)の方々や、その御家族・周囲の方々、主旨に賛同して頂けた方々の御協力があって、、、
団体『GREEN』を設立。
(結成当初↑はリーフレットの表題と同じ英語表記だったが、知的の方々やお子さん達が区民祭り等で「読めない」との事で、今はグリーンという片仮名表記へ申請書類を書き直す。)
メンバーから”平仮名表記の案”も出たが・・・
『団体名の由来』
自身が初めて世に出てネクタイをし配属された組織の部署が999人近くが拒否った【グリーン】という部署で、学の無い私にとって、社会が(実戦的な)大学みたいなものだった、その組織で『100年後の子供達の為』みたいな使命感の様なモノ(←未だ上手く自身の中で腑に落ちる表現の言葉が何十年探し続けても出ない)に気付き、
↓
それに気付いた翌日から私の周囲が物凄い速度で回転し始めた事を学んだ組織の部署の名が『グリーン』という部署だったので、拝借をした。教科書の無い(ルールが確立されていない)ゼロからの立ち上げの部署で、1年間の契約という約束だったけれど、大学も出ていない障碍者が仕事をし過ぎるっていう事は敵も作る訳で、組織を出た後、現場私1人だった仕事が、後を引き継いでくれた日本中・いや世界にも居た支援して下さる派遣の方々・契約職員の方々・同僚『達』・先達の方々・関係省庁・関係者の方々のお陰で、環境省から(理事長が)表彰をされたらしい・・・。
(やり切った、と思う)
・・・組織を出て、店で、焼き鳥を焼いている時、当時の(正職員の)同期がそれを教えに来て下さった「アンタはやったんだよ。だから忘れな」って、忘れるか、忘れないかは私の勝手だが法令施行後→達成率100%の目標で94.6%だか96.4%だったらしい・・・その何故100%に達しなかったか?、足りない数%が1個1個「全部アレがこうで、コレがこうで」と立ち上げから1人でやっていたから全部目に浮かんできたので(=←コレは他のどの部署にも解からないという事も解かっていた・・・だから同期に説明もしなかった、俺の中ではケリが付いていたから)
そんな事を学んだ『グリーン』という部署の名前だった。
偶然だったが、その法令の、この国の最初の集計表の雛形を作る事も出来た。今は違うだろうが←それや出版社や、その後の町おこしとのコラボ・医療機関・厚労省系での頸椎がぶっ壊れるまでの仕事に対し、
↓
後年
・その組織とは別の意味で天才的な人から「貴方は、この国を作って来た。記録には残らないけれど、この国の礎えを作ったんだ」と言って頂けた事と、
・厚労省系で派遣の(方々の中の年長者の)方が最後に「貴方と仕事を出来て良かった、こんな楽しい雑用は無かった!!」と言って頂けた事が私の宝だ。
↑
よく「どの業種が1番楽しかった?」と訊かれるが、どれも一生懸命にやってきたので比べようも無く、どれも1番って感じだから”グリーン”で無くても良かったのかもしれないが・・・それでも、最初に、周囲が、もの凄い速度で回り始めるヤリ方を発見させて下さった名を冠し、ブレない様にしたかった事は事実で)
『許可申請までイロイロと』
そんなグリーンを作ろうと動いている段階で、本当にひょんな事から『区民祭り』に、最初は仲間と個人団体として出展してしまったり、それからユックリとだが加速をし始め、自分でもよく解からないまま何かに流される様に、1年間かけて団体や規約と名簿(←担当から「個人情報を持ち歩く事は危険なので空白の名簿を持ち歩く様に」と言われ『実践』)を作り、
(↓構想を入れて認可までの3年間で11回の規約の修正)
その間、本当に色々な事があった、
居場所を作る為、支援担当・港区社会福祉協議会の人・私の母・支援担当が忙し過ぎるのでその間、代わりの様に話を聞いて下さる担当の方・そして私の4人で、家の近くの港区社会福祉協議会がよく使う区のスペースを視察へ行き、
その後、私の家の1Fをサロンや障碍者達の居場所に出来ないか?とか話し合い、
・結果、バリアフリーではない
・港区の建て続けないとならない再開発の未来も。
(マンションが裏に立てば、その振動で地盤が緩いこの辺の木造建築なんざ、直ぐにペシャっちまう・・)
様々な人との出会いと「別れ」、
でも、そんな中で、上記の支援担当【代理】の(福祉の未来の芽を託そうと考えた)人が、
(他の人達が「あの人には福祉の心がある!」と言った人が、)
↓
「時間はかかるかもしれませんが、代表さんが『この人とならずっと続けていきたい』と思える人と、『選んで下さい』というとおこがましいかもしれませんが、続けていかれて下さい」と、深深と、言って下さり、何があっても諦めず人々に困っている現状を説明し続ける中、様々な多くの障壁に遭う私の心の苦しみを静めて下さった。
何度も傷付き、数回ほど危険に遭いつつも『難』を越えていき(←障碍者も人間だから、悪い人も・良い人も居る訳で、医療事故の件や、他施設の暴行の隠蔽・偽証・防犯カメラ消去・他etc…の事件だけでなく、余りの傍若無人な人間への憤りで、
←その人を涙ぐませてしまった事もあった・・・その時まだ【素戔嗚尊】の如く猛っている、自身を猛省した。)
多分、その瞬間だけが、身体と人生を両方壊されてきた私にとって、唯一の、人類や未来への『希望』だったのだろうな。
そんな協力して下さる方々の誠意に応える事が、私が近年気になっている(←人に訊いておいて自分の答えは?というと、この数年間・考える余裕も無かった)
「福祉の心とは?」というモノに対する『今』の答えだ。
↓
その言葉が無かったら今は無いだろう・・
その後、出版も続けつつ、同士を集め、
・令和5年4月24日に区から決裁が降りた!!
『フリースペースについて』
グリーンの居場所は、最初はテスト的に月1回第2土曜日の午後にフリー・スペースを始め、
(毎週だと、私の身体がもたなくて死ぬので・・・基本は月1にしているが、メンバーが部屋が必要とか、皆で”お金のかからない”何かをしよう!という時は、センターの部屋が空いて居れば予約をし、各自が『思い思いの事』をする。
(結局、お菓子とかを食べながらオシャベリをしちゃうけれどね・・・)
ただフリースペースと言っても、土日祝日は巡回バスが無いので、身体障碍の方は物理的に足が無く中々来られないという状況で、身体の方々がまだ少なく、知的の方々は付き添いの方々まで中々来られないので、今は『概ね』、精神の方々に御協力を頂いている為、今後、重度の身体障碍の方々が移動する手段の部分が重要な課題だなと。
※基本的な事として
僕達自身も障碍当事者なので、
・ヘルパーさんに来て頂き、自分の事は自分で。
・自分が食べるお菓子や、飲み物は自分で用意する(分配はある訳だが、そこは個人の裁量で)。
・他人に迷惑をかけない、自分のしたい事だけをする(←と言ってもヤッパリ人ってのは、人が居るとオシャベリをしたり、情報交換をしたくなってくるのが性というモノで・・・)。
※大体(世の中や社会とかって)金の事でモメるから、うちは一切金を賭けない。
誰か1人が負担をして、いざ蓋を開けたら人が集まらなく、誰か1人が損をしても平気で居られる様な事はしたくないんだ。
だから「無能!」と言われても、なるべくやめている、←うちは区立ではないし、助成金が出るワケでもない。
(なまじ結構な額を貰って団体内の関係がおかしくなった団体もあると聞く。←そこは1番注意をしないと!!)
※障害保健福祉センターを区役所が1年前から押させてしまって部屋が空いていない時は、三田の『障害者障碍者福祉会館』にも、コレもひょんなことから知る事が出来て、『登録』を出来たので、そこも使わさせて頂いている。
※場所変更のお知らせは今の所インスタが多いかもしれない。
インスタ名: green1po1po ( ← フォローのほど、宜しくお願い致します。)
(大体、年1~年2回ぐらい使用・・、↓様々な部屋がある)
『他、(無料なら~というカタチで)の活動』
・区民祭りへ出展 百人一首やトランプも健常・障碍問わず皆で行う!!
(障碍は慣れだと思うので)
3年目は港区社会福祉協議会のおかげで700枚刷って、戸板女子の学生さんや2日目のボランティアさんのご尽力で、概ね配布する事が出来た!!
・ヒューマンぷらざ祭りへ出展。
『ロゴの作成。』
・2回目の『区民祭り』でボランティアの学生さんが提案をして下さったロゴも作った。
①障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)で学んだ『にじみ絵』で描いたロゴをフリースペースの時に描き、
②PCの先生に教えて頂いた画像化を行ない、
③メンバーが「テキストボックスで文字を入れればデザインが自由に出来る」との案を名刺へ。
「障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)ではにじみ絵をしておりますよー」とも言える。
・「あいはーとみなと」で、
①『ラジカセ1個の音楽会』という、順番に5分ぐらいづつ自身の好きな音楽をかけていって、その後5分以内でその曲に関する思い入れを語るという会を、アンダーグラウンド的に7回施設の協力者達と開催し、最高11人来て下さり、借りた部屋の予約時間内に全員出来るかな?とハラハラした事もあった。
(最初はヒューマンぷらざのサロンで『ラジカセ1個の音楽会』を採用して頂き→、あいはーとさんでも1回目はラジカセだったが、2回目から凄い機材で行う様になった。)
(その中で機材の扱い方も施設利用者の方々に覚えて頂き、←それまでは前所長しか使えなかったのだが、仕事ってその人しか出来ないモノを作っては良く無いのと、ここの施設の方々は音にコダワルので、こんな素晴らしい機材を職員さん1人しか扱えないなんて勿体ない!!と・・・このラジカセ1個の音楽会を開催し、機材の扱い方の『マニュアル』を作って、利用者側と、職員側へ配った。)
↓
そして協力者さん達と話していた本当の目的として、いつも私達が主催をするのではなく、利用者さん達自ら「上へ聴きに行こうぜ!」と演って下さる事を真の目的としていたので、7回目の開催以降は(意図的に)2か月間施設へ行かなかったら
(←忙しくて行けなかったというのもあったが・・・)、
↓
2ヶ月後、ご自身達で私よりも機材が扱える様にまで皆様が、ご利用されていて、”目的は達成した”と、ラジカセ1個の音楽会の主催を今施設へ来ている利用者の最年長の方へ移譲。
↓
その後は、サポートというカタチで。
(ただボッチャとの違いは、自主プログラムには入れず、やりたい時にやれる様にしたし、現行のルールも主催者の方がやり易い様に変えた・・・←本当は曲への想いを語って初めて、『発信』と『受容』と曲への理解が深まり生まれるのだが・・・)
↓
(又、プログラム的に昔のルールでやろうかな?・ただ、この忙しさもあって、当然冒頭の障碍に加え、医療事故計4件もあるから身体がもつか?・どうか?)
②(障害保健福祉センターで学んだ)ボッチャを紹介、3日間やって人の集まりが初日だけだったのでこれは無理かな~と思ったけれど、続けて下さる方が現れたので私は退いて(←ヤバい時は紹介したモノとして、なるべく出ていく事にしているが)、続いている様で、しかも謎に結構強くなって社協さんのボッチャ大会で勝ち抜いているし・・・( ← 練習用のボールなのに・・・)(;^_^A
あいはーと祭りでのボッチャ体験を手伝う。
(施設へ紹介をした以上、責任を持って、翌年は色々あって無くなってしまったが・・・私は大人達も体験出来る正式な方を担当したのだが、子供達は学校でやった事があるから結構知っていて、逆にお母様方が「TVで観た事があるボッチャをまさかここで体験出来るなんて」という声をどれ程聞いたか・・・右の写真はボッチャを知らない幼児向け)
メンバーが「障害保健福祉センター(ヒューマンぷらざ)の人達としたい」と言った花見や、
障害者ポスター展へも応募(写真:右)。
『港区社会福祉協議会の、ボッチャ大会や様々なイベント等へ
(メンバーの希望があれば)参加や観覧、そして取材!!』
(↑リーフレットの取材の素材として、『町中のバリアフリー』もだが、ガラケーやスマホ、30年ぐらい前のコンパクトデジカメラで撮影するので写真の大きさはマチマチだが・・・)。
『取引銀行:三菱東京UFJ銀行』
※3時間✕2回の1ヶ月掛けて書類も全て用意し任意団体の許可が令和6年6月27日、行員さんのご助力もあって許可申請が通りました!!
・金とかで仲間内でモメたくないから『人畜無害』である事と・・・、
・「金の為にやってんじゃないですから!!」←最終的にこの一言が聞いて「上司が許可を降ろして下さった」との事。
『オマケ』
※個人がやってきたブログです。折角私共のブログに来て頂けたので、何か楽しんで頂けたら!!
(↓ハイパーリンクをしてありますので、文字をクリックして飛んで下さい!!・※殆ど更新出来ていない記事もあります)
・便利な事
・エコ
・エンタメ
・食材図鑑←工事中
・実績 (グリーンを始める前の社会貢献活動「IGS-RePORT」と~グリーンを始めた当初の説明)
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なにせ(身体を壊しても意味が無いし)無理をせず、お金を掛けないので!!
インスタ アカウント名 :『 green1po1po 』 (←リンク)
・このHP (←基本は、この『グリーンとは』のページを上に持ってくる事にします。)
最後まで、ご覧頂きましてありがとうございました!!