浮遊家具 -6ページ目

浮遊家具

映画 大好き また 始めたいと思います。黄斑変性、SLE、双極性障害で仕事ができなくなり、一人、家の中にいる自分、置き場所のない浮遊して漂う家具よう。ただ、時間だけが進んだ、治癒は進み現在に至る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじ

人間の意識に入り込む研究をする心理学者キャサリンに、FBIからある依頼が。それは逮捕された殺人鬼スターガーの意識に入り、彼が監禁した女性の居場所を探し出すというものだった。スターガーの精神世界に足を踏み入れた彼女に、異様な光景が広がるが…。






製作国・地域:アメリカ上映時間:107分


監督

ターセム

脚本

マーク・プロトセヴィッチ

出演者

ジェニファー・ロペス

ヴィンス・ヴォーン

ヴィンセント・ドノフリオ

マリアンヌ・ジャン=バプティスト

ジェイク・ウェバー

ディラン・ベイカー

パトリック・ボーショー

ジェリー・ベッカー






つぶやき

『ザ・セル』は、物語そのものよりも「映像で何を体験させるか」を最優先に設計された作品だ。監督ターセム・シンのファッション/MV的な美意識は、映画を一本の連続したビジュアルアートのように変貌させる。観客は、連続殺人犯の精神世界に潜り込むことで、ただ残虐性を覗き見るのではなく、その“造形された悪夢”の内部で迷子になる。

ストーリーはシンプルだ。昏睡状態に陥った殺人犯の脳内に、心理治療士キャサリン(ジェニファー・ロペス)が潜入し、犯人が監禁している女性の居場所を突き止めようとする。SFとサイコスリラー、そして犯罪捜査ものの要素を混ぜ合わせた設定は、90年代末〜00年代初頭に流行したハイコンセプトの系譜に属しているが、『ザ・セル』の個性はこの設定を説明的に運用するのではなく、むしろ観客を「説明不能な感覚」に放り込んでしまう大胆さにある。
犯人スターカーの精神世界は、不快でありながらも異常に美しい。宗教的な象徴性、肉体と装飾の融合、動物的な暴力衝動――それらが、まるでファッションショーのランウェイのように配置される。その装飾性は「悪趣味なゴシック美」ではなく、「悪夢の造形美」に近い。安っぽいJホラー的な血の飛び散りではなく、彫刻的で幾何学的な異形が支配する。ここにターセム・シンの偏執的なスタイルが炸裂する。

一方、リアルワールドの捜査描写は、精神世界の映像的爆発に比べれば非常に淡白で、物語的な重さを担っているはずの刑事(ヴィンス・ヴォーン)の描写すら、やや記号的に扱われる。観客を引っ張るのは、サスペンスの構造ではなく「次にどんな映像が待っているのか」という期待であり、それは映画として不均衡であると同時に、他の作品では得られない快楽でもある。
本作が興味深いのは、「心の闇に潜入して救済を試みる」という物語が、本来は心理的な共感に向かうべきなのに、映像体験としてはどこか冷徹で、観察者的に距離を置いてしまう点だ。キャサリンはスターカーのトラウマに触れるが、その精神的解放の瞬間ですら、観客は「美術的な美しさ」として鑑賞してしまう。映画が描こうとする人間性より、造形された画面のエフェクトが勝ってしまう。

これは欠点であると同時に、『ザ・セル』の魅力でもある。つまり、本作は“心理描写に見せかけた美術展示”であり、観客は人間性を理解するのではなく、抽象化されたイメージの連鎖を浴びるのだ。ストーリーへの没入を求める観客にとっては冷たすぎる作品だが、イメージの暴力性と美しさに興奮できるタイプには中毒性がある。
特筆すべきは、犯人スターカーの描かれ方だ。彼は「悪」ではなく、「内包された幼児性」「性的支配欲」「被虐と加虐の循環」を抱えた、非常に病的な造形で描かれる。だが、それを説明する台詞や背景情報は最小限で、映像表現によって
過去や欲望が“空間化”される。そのアプローチは、心理学ではなく美術史的だ。
ジェニファー・ロペスは、演技が突出しているわけではないが、この映画にはむしろ「ストイックな存在感」が必要であり、彼女の均整の取れた身体性は作品のデザイン性と調和している。感情を爆発させる役割ではなく、夢の中を移動する「観察者」として機能するのだ。

終盤、リアルと精神世界が逆転し、キャサリン自身が支配的存在として振る舞う展開は、倫理的には賛否が割れるが、主人公の「介入者=治療者」から「創造者=支配者」への転換として興味深い。救済は暴力を含み、暴力の終わりは安らぎではなく沈黙である。このラストは、単なる感動的解決ではなく、どこか不穏な余韻を残す。

結局『ザ・セル』は、物語の完成度で語られるタイプの映画ではない。人間心理の奥底を描いたというより、心理そのものを「建築として視覚化」した映画であり、その奇抜な映像体験を欲する観客に向けて作られた作品だ。心を理解する映画ではなく、心を見せつける映画だ、と言い換えてもいい。
映像の力がストーリーを上書きしてしまう、この過剰な偏りが、本作を唯一無二のものにしている。
好きか嫌いかは極端に分かれるが、映画というメディアの“感覚的ポテンシャル”を信じている人には、一度は体験してほしい作品だ。