あらすじ
“テクノ”と呼ばれる人型ロボットが、一般家庭にまで普及した未来世界。茶葉の販売店を営むジェイク、妻のカイラ、中国系の幼い養女ミカは、慎ましくも幸せな日々を送っていた。しかしロボットのヤンが突然の故障で動かなくなり、ヤンを本当の兄のように慕っていたミカはふさぎ込んでしまう。修理の手段を模索するジェイクは、ヤンの体内に一日ごとに数秒間の動画を撮影できる特殊なパーツが組み込まれていることを発見。そのメモリバンクに保存された映像には、ジェイクの家族に向けられたヤンの温かな眼差し、そしてヤンがめぐり合った素性不明の若い女性の姿が記録されていた……。
上映日:2022年10月21日製作国・地域:アメリカ上映時間:96分
監督
コゴナダ
脚本
コゴナダ
原作
アレクサンダー・ワインスタイン
出演者
コリン・ファレル
ジョディ・ターナー=スミス
ジャスティン・H・ミン
マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ
ヘイリー・ル・リチャードソン
クリフトン・コリンズ・Jr
サリタ・チョウドリー
ブレット・ディーア
人間ではない彼が、誰よりも人間らしかった。
『アフター・ヤン』を観終えたあと、不思議な感覚が残った。
感動した。
泣いた。
そう簡単な言葉では説明できない。
むしろ胸の奥に、小さな余白が生まれたような感覚だった。
静かだ。
驚くほど静かだ。
この映画には大きな事件がほとんど起きない。
世界が滅亡するわけでもない。
誰かが悪と戦うわけでもない。
壮大な陰謀もない。
ある日、一体のアンドロイドが故障する。
ただそれだけだ。
物語だけを聞けば、あまりにも地味である。
しかし『アフター・ヤン』は、その小さな出来事から、人間とは何かという途方もなく大きな問いへと観客を導いていく。
本作の舞台は近未来。
ジェイクと妻のカイラ、そして養子として迎えた娘ミカの三人家族のもとで暮らしていたテクノサピエンのヤンが突然動かなくなる。
ヤンは単なる家電ではない。
単なるロボットでもない。
家族の一員だった。
特に中国系のルーツを持つミカにとって、ヤンは兄であり、文化を教えてくれる存在だった。
だからヤンの故障は機械の故障ではない。
家族の誰かが突然いなくなることに近い。
映画はそこから始まる。
普通の映画なら、ヤンを修理するための冒険が始まるのかもしれない。
しかし本作は違う。
ヤンがいなくなったことで初めて見えてくるものを描いていく。
私は観ながら、喪失というものについて考えていた。
人は何かを失ったとき、その存在の大きさを知る。
当たり前だった日常。
何気ない会話。
視界の片隅にいた誰か。
それらは失われて初めて輪郭を持つ。
ヤンも同じだ。
家族は彼がいなくなってから、彼について知ろうとする。
何を見ていたのか。
何を感じていたのか。
どんな記憶を残していたのか。
そして観客もまた、ヤンという存在を少しずつ知っていく。
本作で最も美しいのは、ヤンの記憶だ。
彼の内部には断片的な映像が保存されている。
ほんの数秒。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬が胸を打つ。
木漏れ日。
風に揺れる葉。
誰かの笑顔。
立ち去る後ろ姿。
特別な出来事ではない。
人生の主役になるような場面でもない。
しかし私たちの人生もまた、そうした瞬間の積み重ねでできている。
映画を観ながら思う。
人間とは記憶なのだろうか。
もしそうなら、ヤンは本当に機械だったのだろうか。
彼は記録していた。
感じ取っていた。
心を動かされていた。
少なくとも私にはそう見えた。
むしろ本作に登場する人間たちよりも、ヤンのほうが世界を丁寧に見つめていたようにさえ思える。
だから不思議なのだ。
映画が進むほど、私たちはヤンを機械として見られなくなる。
彼はロボットではない。
彼は家族であり、一人の存在としてそこにいた。
そしてその感覚は、ジェイク自身にも訪れる。
最初の彼はヤンを修理すべき機械として扱っていた。
しかし彼の記憶に触れるたび、その見方は変わっていく。
それはヤンを理解する旅であると同時に、自分自身を見つめ直す旅でもあった。
私はこの映画を観ながら、現代社会についても考えた。
私たちはあまりにも忙しい。
何かを成し遂げること。
成功すること。
効率よく生きること。
そんなものばかりを追いかけている。
だが『アフター・ヤン』は問いかける。
本当に大切なのは何なのかと。
人生を形作るのは、大きな出来事だけではない。
朝の光。
誰かと交わした言葉。
何気なく見上げた空。
隣にいる人の存在。
そうした小さな瞬間こそが人生なのではないかと。
ヤンはそれを知っていた。
だから彼の記憶は美しい。
彼は世界を消費していなかった。
世界を見つめていた。
その違いは大きい。
そして私は、この映画の本当のテーマはAIではないと思う。
近未来でもない。
ロボットと人間の共存でもない。
もっと根源的なものだ。
それは「存在すること」の尊さである。
誰かがそこにいたこと。
共に時間を過ごしたこと。
同じ景色を見たこと。
それらは失われても消えない。
記憶として残り続ける。
だから本作はSF映画でありながら、どこか追悼の物語にも見える。
死を描いているわけではない。
しかし喪失を描いている。
そして喪失を通じて、人と人との繋がりを描いている。
だから静かなのに深く心に残る。
派手な演出はない。
激しい展開もない。
それでも映画が終わったあと、私はしばらく席を立ちたくなかった。
まるで自分自身の記憶を見返したあとのような気持ちになったからだ。
『アフター・ヤン』は未来を描く映画ではない。
むしろ今この瞬間をどう生きるかを描いた映画だ。
人間とは何か。
家族とは何か。
記憶とは何か。
その答えを与えてくれる作品ではない。
だが静かに問いを残していく。
そして、その問いは映画が終わったあとも消えない。
ヤンはもう動かない。
それでも彼は確かにそこにいた。
その事実だけが、まるで優しい光のように、最後まで心に残り続けるのである。
