あらすじ
カフェを営む亮介(松坂桃李)の日常はある日突然崩れ去った。男手ひとつで育ててくれた父親が余命わずかと診断され、結婚を控えていた千絵(清野菜名)はこつ然と姿を消してしまったのだ。新しい家族を作ろうとしていた矢先の出来事を受けとめきれない亮介は、実家の押し入れで一冊のノートと巡り会う。「ユリゴコロ」と書かれたそのノートに書かれていたのは、美紗子と名乗る女(吉高由里子)の手記。
上映日:2017年09月23日製作国・地域:日本上映時間:128分
監督
熊澤尚人
脚本
熊澤尚人
原作
沼田まほかる
主題歌/挿入歌
Rihwa
出演者
吉高由里子
松坂桃李
松山ケンイチ
佐津川愛美
木村多江
清原果耶
清野菜名
人を殺すと、心が落ち着く。
そんな言葉を口にする人間を、私たちは普通なら理解の外へ追いやる。異常者。殺人者。自分とは違う人間。それで境界線を引けば、ひとまず安心できる。
『ユリゴコロ』は、その線を少しずつ消してくる。
亮介が実家で見つけた一冊のノート。そこには「美紗子」という女の人生と、彼女が犯してきた殺人について書かれている。
告白なのか。
創作なのか。
そして、なぜこのノートがここにあるのか。
映画はその謎を抱えたまま、現在と過去を往復していく。
だが、ページをめくるほど気になってくるのは、誰が書いたのかということ以上に、美紗子という女そのものだ。
彼女には、私たちが当然のように持っているはずの何かが欠けている。
罪悪感という言葉だけでは足りない。
他人の痛みを想像できない、という説明でも収まらない。
世界との接続の仕方そのものが、どこか違っている。
だから美紗子にとって、人の死は恐怖ではない。
むしろ騒がしかった世界が一瞬だけ静かになる場所だった。
それが彼女の「ユリゴコロ」だった。
吉高由里子は、この人物を分かりやすい狂気として演じない。
そこが怖い。
大声で笑わない。
目を剥かない。
いかにも危険な人間らしい記号をほとんど見せない。
ただ、そこにいる。
人を見ているときも、何かを考えているときも、彼女の表情にはほんの少しだけ温度が足りない。そのわずかな距離が、美紗子を現実から半歩ずれた場所に立たせている。
だからこそ、松坂桃李が演じる亮介がノートを読む時間と、美紗子が生きた時間が重なっていくほど、不思議な感覚が生まれる。
過去を知れば知るほど理解できるはずなのに、むしろ簡単には判断できなくなっていく。
そして美紗子の前に、一人の男が現れる。
ここから映画の空気が変わる。
突然、美紗子が普通の人間になるわけではない。
過去が消えるわけでもない。
犯したことが許されるわけでもない。
それでも、それまで死によってしか得られなかった静けさに、生きている誰かが入り込んでくる。
この変化を『ユリゴコロ』は美しい更生物語にはしない。
むしろ厄介なのはここからだ。
人を愛することを知ったからといって、それ以前の自分が消えてくれるわけではない。
人間はそんなに都合よく生まれ変われない。
だから美紗子の中では、過去と現在、死と生活、冷たさとぬくもりが、最後まで綺麗には分かれない。
その混ざり方が、この映画には妙に生々しい。
ノートを追っていたはずなのに、いつの間にか一人の女の人生を追っている。
殺人者の告白を読んでいたはずなのに、いつの間にか誰かが誰かを待つ時間を見ている。
それでも、美紗子を理解したとは言いたくない。
彼女のしたことを一つの理由へ閉じ込めた瞬間、この映画からいちばん奇妙なものが抜け落ちてしまう気がするからだ。
ただ、一つだけ忘れにくい。
人の死によってしか心を落ち着かせられなかった女が、生きている誰かのいる場所で、ほんの短いあいだ普通の時間を過ごしている。
食事をする。
同じ部屋にいる。
帰ってくる人を待つ。
何でもないことばかりだ。
『ユリゴコロ』を観終わったあとに残るのは、血の色よりも、なぜかそんな時間だった。
そして美紗子の顔を思い出す。
あのとき彼女が感じていたものに、どんな名前をつければいいのか。
映画は最後まで、それをこちらに教えてくれない。
