あらすじ
環境破壊に人生を狂わされた Z 世代の環境活動家たちが、石油パイプラインを破壊する大胆な作戦を実行する。やがて過激な決意が、友人、恋人、苦難に満ちた物語を持つ仲間たちを巻き込みながら暴力の象徴的(=パイプライン)を爆破するという大胆なミッションへと結びついてゆく。若い世代のエネルギーは、予期せぬ混乱を招きながら、爆発的フィナーレへと疾走する。
製作国・地域:アメリカ上映時間:104分
監督
ダニエル・ゴールドハーバー
脚本
アリエラ・ベアラー
ジョーダン・ショール
ダニエル・ゴールドハーバー
原作
アンドレアス・マルム
出演者
アリエラ・ベアラー
サッシャ・レイン
ルーカス・ゲイジ
フォレスト・グッドラック
クリスティン・フロセス
マーカス・スクリブナー
ジェイミー・ローソン
ジェイク・ウィアリー
つぶやき
環境問題を巡る議論が、現実の政治ともども袋小路に迷い込んでいる今、「暴力は正しいのか?」なんていう、誰も正面から言いたがらない問いに土足で踏み込んでいくこの映画は、正直なところ不快でもあるし、妙に軽やかでもあって、なかなかクセ者。
タイトルからして物騒なんだけど、実際に爆弾がドカンと爆発するアクション映画では全然なくて、どちらかと言うと「破壊という手段をめぐる思考実験」を映像化したエッセイに近い。
作品全体のトーンが、「怒りで燃え上がる」というより「苛立ちがじわじわにじむ」感じで、社会運動の現場にいる人たちの、熱気とも疲労ともつかない空気がやたらリアル。やってる本人たちも「これが正しいのか?」とどこか自問しながら進んでいるような、あの迷いが抜けない足取り。環境活動家という存在が、一般に想像される“高潔なヒーロー”や“過激なテロリスト”のテンプレにはまらず、もっと人間臭い、弱気さや滑稽さを抱えた存在として描かれるのが面白い。
映画の中心にあるのは、「現状を変えたい」という願いがどれだけ強くても、それを実際の行動に落とし込む瞬間には恐怖が勝る、というごく当たり前の心理。誰かが声高に「やるべきだ」と叫ぶ裏で、「本当にやるの?」「それで何が変わるの?」という沈黙が膨らむ。そこに生まれる溝を映画はしつこく見つめていく。
この“沈黙の時間”を退屈だと思う人もいそうだけど、そこにこそ社会運動の最も人間的な瞬間が宿っているし、同時に最も不気味な緊張も漂っている。
映像は淡々としていて、派手な音楽やカット割りで煽らない。むしろ、冷静すぎて不気味なほど。感情的な熱をあえて封じて、アイロニーを浮き上がらせる、ヨーロッパの政治ドキュメンタリーにありがちな乾燥したスタイル。そのくせ、時々ブラックユーモアが挟まるから油断できない。
この「乾燥」しきった質感が、環境運動が抱える絶望と使命感を、妙にリアルに伝えてくる。地球が燃え尽きる未来を心配しているのに、今目の前では皆、冷静な振りをしてルールを守る。そんな矛盾が一番怖い。
個人的に興味深かったのは、映画が観客に「どっちが正しいか」なんて説教してこないところ。むしろ逆で、全編が「本当にこれしか方法がないのか?」「いや、そもそも自分は何かしたいわけ?」と問い返してくる。
つまり、答えを映画の中に用意しないことで、観客を“決断未遂の状態”に置き去りにする。これ、ある意味では凄く不親切なんだけど、環境問題を扱う映像作品としては珍しく誠実とも言える。
ラストに用意された“ある選択”も、爽快な達成感を与えるというより、「やっちまった」という感覚と「それで?」という虚無感が同時に押し寄せるタイプのもの。映画的なカタルシスを放棄し、観客を居心地悪い場所に放り出して終わる。
でも、それこそが多分この映画の狙いで、社会運動に参加した人が経験する、あの「自分の行動は意味があるのか?」という底なしの疑問を、観客に追体験させる仕掛けなんだと思う。
結局のところ、映画が言っているのは「暴力を肯定」でも「非暴力を推奨」でもなく、「無関心と惰性こそ最も強固な暴力」だというメッセージに近い。人は“何もしない自分”を正当化し続けるために、とてつもない理屈を積み上げる。その執念深さを、この映画は淡々と暴いていく。
総じて、観ていて気持ちいい作品では全くない。だけど、環境問題をテーマにした映画の多くが語り損ねている「運動に参加することのしんどさと空虚さ」を、ここまで露骨に映像化した例は珍しい。
観終わった後に爽やかな未来が見えるわけじゃないけど、「何かを変えたいと思う人間は、まず自分がどれほど無力かを知る羽目になる」という真理を静かに叩きつけてくる、奇妙に正直な映画だった。
