今日は「記憶に残るお芝居」のお話はお休みを頂きまして、別の話題を・・・。

先日ニュースで名古屋栄あたりの映像が流れました。
栄の交差点のシンボルであった劇場の入っていた中日ビルがなくなり、
なんだか私の知らない名古屋になりましたね。


私が初めて役者として名古屋へ行きましたのは1965年(昭和40年)5月
御園座の東宝劇団の公演で先代松本白鸚さんと山本富士子さんの顔合わせでした。

山本富士子さんが新歌舞伎に挑戦され『大石最後の一日』の磯貝十郎左衛門の恋人、
乙女田娘おみのが小姓志津馬として男装して会いにくる・・・という場面、
もちろん大石内蔵助のお役は先代白鸚さん

この時に私は内蔵助を切腹場へ案内するお小姓役で出させて頂きました。


夜の部では同じく白鸚さんの『名和長年』で三男乙童丸を勤めさせて頂きました。
これ本当に大役でこの年の東京公演の時には團蔵(当時銀之助)さん 
大阪公演の時には仁左衛門(当時孝夫)さんが勤められ名古屋の時には私が
勤めさせて頂きました。

ですがこの5月の公演は東宝劇団としての公演ですので歌舞伎データベースには
私の名前はございません(笑)
3月の東京、4月の大阪では歌舞伎としての公演でしたので、記録には残ってます。

同じお芝居をしたのに、しかもそうそうたる方々と同じ役を勤めたのに、

松竹の公演ではなかったので、記録に残っていないのは なんとも悔しい限り(笑)

 

その悔しさがあるからでしょうか、このお話は、ブログでも何度も書いております。

記録には残っておりませんが、みな様の記憶に残って頂けたら 嬉しいです(笑)


この時の御園座公演が私の初名古屋で、この後の名古屋は1973年(昭和48年)
名鉄ホールの公演でクレージーキャッツの植木等さんと谷啓さんの
『たいこもち』『平手造酒』でした。お芝居のギャップが凄いでしょ?(笑)


中日劇場へ初出演しましたのは1977年(昭和52年)の時でした。
演目は『水戸黄門』で二世鴈治郎さんの黄門様に吉弥さん 先代亀鶴さんの
助さん 格さん これに宿屋の女将に藤間紫先生 悪家老に段四郎さん他 

財津一郎さん 平凡太郎さんと実にバラエティーに跳んだ出演者で

脚本演出はテレビのままの大西信行さん
音楽もテレビの曲をそのまま使っておりました。

楽しい公演でした。ここへ来て初めて中日劇場の話題ですが、
この劇場のある中日ビルの地下1階に「ラーメン亭」と云う小さいですが
中華食堂がありました。

私ここの中華の味がとても大好きでした(笑)

炒飯、中華丼、天津飯 酢豚あたりが400円から450円くらいでリーズナブルで
楽屋からみんなも出前でよく利用していましたね。

お芝居が終わった後などもよく食べに行っておりました(笑)
調理師さんたちも出前に訪れ顔なじみになっておりました。

この地下1階にはお惣菜屋さんやパン屋さんなども多数入っており
ホテル暮らしの名古屋では重宝致しておりました(笑)

中日劇場がなくなりここのラーメン亭も閉店した聞き 残念でしたね。

そして御園座は新しくなりましたが 聞くところによると
名鉄ホールも2015年には閉館となりお芝居の公演をしていないとか・・・。
寂しくなったものです。

コロナ禍の影響で今の所名古屋へも行けておりませんが、
名古屋にも色んなところに行きつけのお店がたくさんありましたが、
今はそこの皆さん どうして居られるかなぁ~。

近くて遠い場所、名古屋 栄の風景を見てそんな名古屋を思い出しました。