先日,松原智美さん(フリーベース)の
アコーディオン・コンサートへ行ってきました。

松原さんは先日の公開レッスンで指導していただいた先生。
フランス・ドイツに留学された後、2011年に帰国。
関西を中心に、精力的に活動されている先生です。
おぉ!と思ったのが、今回のプログラム内容。
「J.P.ラモー」。
「セヴラック」。
「サティ」。
「ラヴェル」。
そして「グリゼイ」とオール・フランス作曲家というのに、個人的に目が惹かれました。
シャブリエでなく、セヴラックを演奏するのも渋いセレクト。
メシアンを彷彿とさせるグリゼイの初期の曲も、大変美しく、聴きごたえがありました。
前半はソロで。
後半は大田智美さん(アコーディオン)とのデュオ。
後半でのラモーの曲は、音大時代にずっと聞いていたのを思い出ました。
(古楽の授業で「ヴィオラ・ダ・ガンバ」を専攻)
アコーディオンでクラシックを演奏するのは、日本ではまだ浸透してるとは言い難しですし、一時期流行った「オーセンティックな演奏」とは対極にある演奏でしょう。
新しい20世紀の楽器で演奏することについて、少し長いですが、シュテファン・フッソング(ドイツのアコーディオニスト)のインタビューを引用してみます。
『過去に創作された音楽の演奏に古い楽器を使用したとしても,その真正な(authentique)るものを復元することにはならない。演奏解釈(interpretation)の真正性が,<客観的であること>と<演奏解釈>の定義は,根本的には全く結びついてなどいない。それどころか,バロック音楽の演奏法は,その実践にあたっては,装飾音奏法の例をとってもわかるように,演奏家に<主観的>な共同創作の権利をはっきりと付与したばかりでなく,義務づけさえしているのだ。しかしながら,今日においては,客観性のほか,いま述べた<真正性>にもうひとつの意味が加わる。それは,時代とむすびついた芸術家のの志向(もしくは芸術上の心意見解)である。ゆえに我々は,音楽家がそのようにしたかった」ということと「そのように聴かなくてはならない」ということの狭間でおこる循環法を話題にすることになるだろう。昔の演奏論のなかでそのようなものとして明らかにしばしば言及されるのは,音楽は感動させ,魅惑させ,また驚かせなくてはならないということなのだが。』(注1)
彼の師、フーゴ・ノートを引用したこの音楽観は、対極にあるオリジナル楽器で演奏するアプローチとは全く別の視野から、音楽解釈の幅を広げる可能性を持ったものだと言えそうです。
「一人オーケストラ」とも言われるアコーディオン。
複数の音を同時に発音できる鍵盤楽器と、発音した音を増幅させることのできる吹奏楽器が融合し、音の世界においても新たな可能性を持った楽器だと思います。
メカニックな構造から発する音は、緻密な音楽表現を可能にします。
また、演奏者の繊細なニュアンスが、聞き手にストレートに響いてきます。
サックスと同じように、初心者でも音が簡単に出せるんですが。
いざ「音色を作っていこう」とすると、大変難しくて。
とても奥の深い楽器なんです。
松原先生のコンサートでは、アコーディオンが、ある時は木管楽器のように。
ある時は華々しく金管のように響き。
実に多彩な表現で、クラシックとアコーディオンの世界に触れることができました。。
ヨーロッパでは一般的なアコーディオンのクラシックコンサート。
日本でも、さらに聞き手が増えて、層が厚くなると、面白くなってくるのではないでしょうか。
ENSEMBLEでもアコーディオン用のクラシックの楽譜を少しずつご紹介していってます。

「クラシック エクスクルーシブ」
自分の奏でる音に集中し、磨き上げ、さらなる表現を目指して。
素敵な音楽を奏でられるようになりたいと思います♪
注1:アコ-ディオンと共にあるバッハ--a la maniere d′interview (バッハ--古楽器の宇宙<特集>),フッソング シュテファン,小沼 純一訳[ユリイカ 28(1), p148-151, 1996-01 青土社]