祖母の介護生活は・・・ほんのり桜色の光と共に | 時間*空間を超えて、自分を癒し・調和し・バランスするヒーリング

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頑張ってきた、過去のあの時のあなたに。。
悲しみの中で、苦しかった時のあなたに。
辛くても、一人で乗り越えてきたあなたに。
「ありがとう」のエールを贈りませんか?

28の時に子宮内膜症から、卵巣嚢腫になった私でした。その種類がチョコレート膿腫といわれ、「あ、、、チョコ好きだからかな」などとアホなことをいって笑っていました。

子宮内膜症から、チョコレート嚢腫を創造した私のカラダ


月日は流れて・・・ある年、祖母がくも膜下出血で倒れ、入院となりました。一時はもうだめかと思うほど、祖母の姿は、変わり果てていました。意識がないまま(ないように見えるだけかもしれません)カラダが波打つように動き、目ん玉は、グレーなゼリー状のお魚のようで。。。それは人でもないように見えて、とても怖かった記憶があります。

その状態から、しばらくすると一転して落ち着きを取り戻し、それもまた別人であるかのように、
しゃんとした貴婦人のような祖母がいて。。。。そしてまた、私の知っている祖母の姿に戻っていきました。

そして、数週間で奇跡的に回復し退院したことから、母と私の二人三脚での介護生活が始まりました。

仕事もしながら、夜になるとおきて動き出す祖母を見ていくのは、母との二人左脚とはいえ、相当大変だったと思います。(のど元過ぎて・・・とっくに忘れていました)

つなぎのパジャマは、おむつをしているので、チャックにカギをかけていたのですが。。。ある夜トイレに起きると、ふと物音が。

・・・ジョキ ジョキ ジョキ・・・・

んんんん???ふと部屋をのぞいてみると、裁縫ばさみ(祖母は裁縫が得意で、浴衣も縫える人だった)で、パジャマを切り刻んでいる祖母の姿が。。。


驚いて声も出せずにムンク顔になっている私に気づいた祖母は、

  (´▽`) ニコッ 

晴れやかな笑顔を見せてくれた。そりゃー、おむつ・・・気持ち悪いよね。嫌だよね。でも、布団にされちゃったら~~~大変なんだよぉ~~~。そんなこちらの心の叫びも祖母には届きませんでしたね。


デイケアなどの施設もたまに使いながら、母が倒れないように、助け合いながらやってきました。母は日中もずっとなので、そのストレスは相当なものであったと思います。私にはまだ仕事という逃げ場があったからね。

どのくらい続いたかも、もう忘却の彼方なくらい、昔の事になってしまったのですが。介護生活も終盤を迎えつつあったある春の日、お天気がよかったので、祖母を散歩に連れ出した。

桜を観に行きたかったのだ。桜の木がある公園までは少し距離があったのだが。。。途中なんども休みながら、祖母は「もう帰る」としきりに言っていたが、どうしても、私が一緒に桜を見たかったのだ。

桜を見たら、きっと祖母は元気になるに違いない!そんな気持ちがどこかにあった。ようやく桜の下についた時、少し散り始めた花びらが舞い落ちてきてたが、祖母はそれを一目ちらりとみた後、「もう帰ろう」と言った。

それからしばらくして、祖母の容体は弱っていき、最後の時は病院のベッドの上で迎えました。


私は小さい頃から、祖母の事があまり好きではなく、白くてきれいな母の手に比べて、茶色くてしわしわの祖母がいやでした。だから、冷たくしたり、いじわるしたり、無視したり・・・祖母にはあまり優しくない孫だったと思います。

それでも、いつも祖母は私に優しかったんです。いつも満面に笑顔を浮かべて、私の名を呼んでくれていました。

祖母と過ごした介護生活は、そんな子供時代に祖母を好きになれなかった私の懺悔の日々だったのかな~。

祖母の名は  はる    

春の日差しのようにキラキラした優しい目で、愛を贈り続けてくれた常春の存在であった祖母との、大変だったけど、とても優しくあったかい時間を過ごしたあの日々は、懐かしくほんのり桜色の光と共に、私の心の中にそっとしまわれています。