28歳の時に、子宮内膜症と診断されました。 | 時間*空間を超えて、自分を癒し・調和し・バランスするヒーリング

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頑張ってきた、過去のあの時のあなたに。。
悲しみの中で、苦しかった時のあなたに。
辛くても、一人で乗り越えてきたあなたに。
「ありがとう」のエールを贈りませんか?

こんにちは。。。

ここしばらく、自分の人生を振り返って、私自身が経験してきたことを書いています。

仕事も忙しく、残業続きの毎日を送っていた20代前半、そして抑えてきたものが噴き出すように現れた顔のアレルギーから立ち直って数年経った頃。

【壮絶な痒みの経験】唇の水泡が、私の顔中に広がっていったときが一番つらかった!


急に下腹部と、仙骨のあたりに痛みが生じ、ピタッと張り付いたようにとれなくなった。少し貧血のような感じでもあったので、どうしたんだろうな・・・と思いつつ、そのまま放置していた。

でも、痛みはだんだん強くなり、不安になったので、家庭の医学書を開いてみた。今のようにネットでなんでも情報が取れる時代ではなかったので、本をみて、腹部の痛みから私の感覚に似たものを調べていくと。。。

卵巣嚢腫

という病気が目に入った。何と書いてあったかは忘れたけれど。これに違いない!と持ったのは今でも覚えている。

その頃は今のように、ネットでいろいろ検索することもない、アナログな時代。。。にこり なのに、よくわかったよな~~~。やっぱり自分のカラダのことって、なんとなく薄々だけどわかるのかな。

そのころ、親からは「結婚しろー」という督促の嵐。世間の目もそうなっていく中、私の心は抵抗し続けていたのですが、カラダのほうがその言い訳を造りだしてくれたのです。


病院に行って、診察の結果 「子宮内膜症、チョコレート脳腫、オペします」 とカルテに先生が書くのを、どこかほっとした気持ちで眺めていた。これでもう大丈夫!結婚しないでいい理由ができた。。。そんな感じだったと思う。

何をこんなに抗って生きてきたのだろうと、今の私なら思うのだが。。。どうしても、誰かの言いなりになる人生は嫌だった。

実は、一生墓場まで持っていこうと思ってたことがあった。

それは、就職活動をしていたとき、私自身は自分で決めた、自分にあった会社には入れればよいと思っていたのだが。。。私の将来を案じ、幸せを願う親のとった行動が、「コネ」だった。

父の知り合いの議員の秘書をしていた男に、口添えを頼んだわけだが。。。結局はコネで本当に入りたいと思った2社には入れずに、ここは、コネがなくても絶対入れたと思われる総合商社に内定した。

その会社には、私が通っていた専門学校(英語の)からも、結構な人数が同期入社していて、私よりも下のクラスの子もいたので、そのコネ男の力ではないというのが私の本音だったが。

親は、コネ男のおかげで、入社できたのだから、感謝しないとね。そして、それを動かした父にも。。。という図式でいたのだった。

私自身は腑に落ちていなかったが、親の手前、そのように納得せざるを得なかった。しかし、、、その後、コネ男は、セクハラ男に変身。。。

このことは、私の心に深い傷をつける出来事となった。でも、それを親に言うわけにはいかない。一生それを自分のうちにしまったまま生きると決めたのだった。


だから、どこかで私はいつも 「だれの言いなりにもならない!」 そんな気持ちが強くなっていったのだと思う。

ちなみに、、、一生墓場まで・・・と思ったこの事件ですが、35~36歳くらいのときに、とあるコースを受講して、未完了なままでいることを辞めようと決心し、両親にカミングアウトした。

もちろんびっくりしていたし、そのころ、そのコネ・セクハラ男とは縁が切れていたので、どうすることもできなかったのだが。。。(というより、そいつは自動的に衰退していった) こうして、その未完了は、両親に話すということを通じて完了となった。


まあ、そんなこんながあって、私のカラダは、自分をおし殺してまで言いなりにならないで良い理由。親も世間も納得する状況を造りだしていってくれたのだと、2009年に自然治癒力学校に出逢い、抑圧した心がいろんな症状や病気になって自己主張してくるという、「病気は才能」を世に贈りだした、おのころ心平氏に師事し、その学びや掘り下げの中で、見つけていくことになるのであった。