「急げ、すでに支配されつつある。猶予はあまりない」
カウボーイハットを被った茶色の猫は(見た目は私が今まで猫だと認識していた猫だ)私に言った。言葉の内容とは異なり、非常にゆっくりした動作である、まるで縁側でひなたぼっこをして気持ち良さそうに顔に風をうけあくびをしているみたいに。緊張感がわかず何も答えずにいるとまたその猫が言う
「聞こえているのか。自分の置かれている状況を少しは危惧すべきだ。いつまでも私がお主の側にいると思うでないぞ。とかく、今は話し合っている場合ではない。動け」
「動けと言われてもどう動けばいいのですか?右足左足を交互に動かし歩くことぐらいしかできませんよ」
「その”ことぐらいで”かまいやせん。この場所はすでに私たちに適した場ではなくなってきている」
はたしてどこなら私たちに適した場所なのだろうと考えながら、とにかく私が前だと思う方向に、わたしの目が今向いてい方向に右足と左足を交互に動かし始めた。私は昔から右足から動き出すことにしている。背中を押され態勢を崩し、無意識に左足がでそうになったら、意識的に右足をだす。例えそれで無様に倒れ込んで怪我をしたとしても、心は無傷である。むしろ達成感で満たされ意気揚々としてしまうぐらいだ。いつから、なぜそのような習慣を持ったのかは思い出せないぐら昔から徹底している。ほぼ例外なく徹底している。
「一つ質問していいですか」
「ほう。疑問を持ち、それを追求しようとする行ないは嫌いではない」
それはたぶん質問してもいいって事なのだろう
「あなたは猫なのですか?」
「はっはっは。お主は面白いことを聞くな。猫を見るのは初めてかね」
急げと言っていたわりにはとくに焦る様子もなく、のんびりと会話をしてくれる。とりあえず私は運動神経をつかって脳から右足、左足を交互に動かし続けるシグナルを送り続ける。
「もちろん。猫を見たことはあります。しかし、カウボーイハットを被り、人の言葉を話せて、二足歩行で歩く猫はみたことありません。」
「お主には姿は猫に見えている。ではそれで十分ではないか。知らなくていいこと。知らないままでいいこと。世の中にはふたをしておいた方がいいことがちゃまほどある」
「ためすぎるといずれ熱い火となりどこからか突然墳火するかもしれません。関係のない人たちが被害にあうかもしれない。私はそれが心配です」
「お主は自分の心配だけしとればよい。とかく今はな」
「あなたはどうして私を助けてくれるのですか」
「お主の”一つ”というのは吾輩が思っている”一つ”とは違うようだ」
「人によって言葉のとらえ方が違う。あなたの思っている概念が、私の思っている概念とは違って当然かもしれません。私の思っている猫と、あなたの思っている猫が違うように」
考えてみると言葉と言うものは実に便利で脆く、鋭利で実態のない凶器みたいなものだ。人を救うことも、殺すこともできる。自分次第でどんどん強力な武器へとアップロードできる。無数に存在する言葉を他人同士が共通認識として普段使っていることの方が不自然にすら思える。言葉を使っているのか、それとも言葉に使えわれている動く人形なのか。考えれば考えるほど出口のない迷路の奥に奥にへと進んでいくみたいだ。そもそも言葉がまだできる前はどのようにしてコミュニケーションをとっていたのだろう。必要だから言葉が誕生した。どうやって、誰が、どのタイミングで言葉を発明したのか。そしてどこからその口から発っした意味不明な音はこの意味だと認識し広まっていったのか。言葉が理解できない人に、言葉をうまく理解できない人が、伝えていったのか。とはいえ、今では言葉を話せるのは当たり前となり、共通認識として様々な音の響きに意味を持っている。実に不思議だ。一度じっくり調べてみたい。
「そのためにはお主はまずここから無事に出なければならない」
どうやらこのカウボーイハットを被った猫は私の心のなかを読めるらしい。ますます私の創造している猫とは異なる。いや、私が知らないだけで猫には人の心を読めるのかもしれないが。
「探究することはすばらしい。それこそ人間の持つべき素晴らしき能力じゃ。それはとても面白くて、おいしい」
”おいしい”?
「そう、おいしい」
「どのような味なのですか」
対して興味はなかったがなぜか聞かずにはいられなかった
「心が少し埋まるような味だ」
「あなたはやはり私の思っている猫とは違う。根本的に。もし無事にここを出られたら、言葉の誕生と猫について調べてみます」
「探究することはすばらしい」