股関節がどのような仕組みで、どのようにして動くのかということは解剖学や運動学を学んで知っている。
しかし、実際のところはその動きを体現できないでいる。
これは、股関節については学んだことがあるが身についていないということだ。
指導する立場になると自身が身についていることだけでなく、覚えていること知っていることを伝えてしまう。
受取手は、伝言ゲームでもしているかのごとく、身体をよじりながら思考する。
伝言ゲームならば、終いの受取手は何が何だかわからないような回答をするということになる。
誰がゲームを壊したかといえば、動きを体現できないのにわかったふうなことを伝えてしまった指導者ということになる。
逆に動きを体現できる指導者が伝えたとしても必ずしも正確な動きが終いの受取手に伝わる保証はない。
今度は、受取手がゲームを壊すからだ。
指導者と受取手の関係はどのような立場がいいのかということを考えさせられる。
中島章夫先生の師匠である古武術研究家の甲野善紀先生は、受取手に手取り足取り教えるのではなく、ご自身の稽古をしているだけ。
稽古会などに初めて参加して戸惑っている方も多いそうだが、これでもか、これでもか、とご自身の興味に従って不思議な技を連発する。
当然、伝言ゲームのそれとは違い連想ゲームか神経衰弱の様相だ。
受取手は、唖然として何を何処から手を付けていいのかわけがわからないというような非常に面白い講習会をされている。
結局、受取手は学ぶか、学ばぬか、ということを問われるのだと思う。
そして、面白いというのはその瞬間、瞬間を甲野先生自身も稽古をして学んでいるということだ。
学びの原点は、共に学ぶ、師匠の姿から学ぶという姿勢なのかもしれない。
私は他の古武術の稽古に参加したことはないが、古武術の稽古には見て盗むという職人的な学びがある。
そうすると股関節の動きを指導する場合も指導者は体現できるよう稽古し学んでなくてはならない。
甲野先生は圧倒的な技を体現して見せる。
受取手が学ぶための指標がそこにあり、その技を目指すという学びの環境ができる。
股関節にしても教科書に書いてあることは、教科書を読めばいいわけで、どのように股関節が動いてどのようにしたら動くのかということを、指導者が体現できれば、学びの環境が成り立つということになる。
やはり、口だけ、知識だけでは学びの環境を築くことはできないと思う。
このような学びの環境は、現在の教育環境のようだ。
学ぶということを学ぶ環境が失われたために知識を教えるとか、手取り足取り教えるような環境が主流になってしまったのではないだろうか。
股関節にしても知識を増やせば、学んだということで満足してしまい、結局、股関節を動かせないまま。
いくら知識を増やしたところで動かないものは動かないし、むしろ知識が邪魔をして股関節を動かせないことの方が多い。
車の免許を取っても、運転をしないで運転技術書を読み漁っていているペーパードライバーのようだ。
現在の教育環境というのはペーパードライバーを増やすためのものなのだろうか。
学びの環境を改める必要がある。