ヨガプラクティスは人を磨くのか | 専門性を高めるプロ向け英語コーチング

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いきなり自分を棚に上げて書くけれど

(いや私こそがそうですと先に白状するべきか)、

人が「何かに長けていく過程」において、必ずしも「精神修養」が同時に行われているとは限らない。

 

もの凄くスタイルが良くても意地悪とか、

もの凄く頭が良くても性格がこじれ中とか、

もの凄くヨガアサナのアライメントが完璧に綺麗でも、

マットを降りれば周囲と軋轢が絶えなかったり、

シンプルにケータイ中毒だったりする。

 

 

 

 

上記の例で言えば、

ダイエットが上手だったり、

勉強の要領が良かったり、

ヨガアサナの技術が高いことと、

 

人を思いやる気持ちや、優しさや、忍耐力があり、

人を励まし、共に生きる豊かな精神性を持っていることは、

あいにく簡単には比例しない。

 

とは言え、「道を求める」生き方において、

「必然的に磨かれていくもの」があるのも事実だけれど、

知識と経験の蓄積から専門性が高まり過ぎて排他的になり、

「シロウトお断り」みたいな”しかめっ面のプロ”になるケースもままある。

 

 

 

 

「ヨガをしたことがなくて体は硬いが、

メンタルが安定して何事にもバランスが良く、人望の厚い人」と、

 

「肉体は美しく知識も経験も豊富なヨガマスターだが、

どうにも気難しくて付き合いにくく、会うたびにこちらが緊張を強いられゲッソリ疲れてしまう人」を仮に脳内に想定すれば、

 

知識・経験・技術が磨くのは「専門性」であって、

「人間性」はオプションとして各人に任されていることがわかる。

 

ではここで比較対象として、

「人間性は素晴らしいんだけど、知識も経験も指導力もなくて生徒にケガをさせてしまう残念なヨガティーチャー」を登場させてみると、分かることがある。

 

「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」

 

 

 

 

人柄は良いが歴の浅いヨガティーチャーは、

技術的な研鑽を積むにつれ素晴らしい先生になっていくだろうし、

 

いろいろコジれてはいるが指導力に長けたヨガティーチャーは、

人間関係に揉まれるうちに人柄が練れていって、円熟味のある素敵な先生になるかもしれない。

 

 

 

 

「専門性と人間性」などと私がしたり顔で書き連ねるまでもなく、

日本の先人がこの大地に生きながら、人を見据え稲穂になぞらえ、

とうに終えていた議論であった。

 

ヨガを例にとってはみたけれど、それがなんであれ、

「何かに長けていること」と「人間性が磨かれていくこと」にはあいにく直接的な相関関係はない

(例:見飽きるほど報道される「スポーツ強豪校の暴力事件」「旧帝大のパワハラ・アカハラ」etc.)。

 

しかしながら、むしろヨガは

(「現代のヨガ」であってさえも、まだ)

プラクティスの中に精神修養の側面が強く盛り込まれているのだから、

他とは一線を画しているとも言える。

 

だからこそ、体の柔軟性やアサナの形・難易度に囚われることなく、

 

「実るほど、頭を垂れて(・・・いや前屈の深さじゃなくて)」

 

いきたいものである、と自戒を込めて。

 

 

 

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次回予告。

「"モチベーションが高い人"の暗く深い落とし穴」

 

 

「何かにブッチギリに長けるほどの強いモチベーションが生まれる源」には、

ネガティブな強い感情が渦巻いていることがある。

「強い劣等感・焦燥感・不平不満 etc.」が原動力となって、

「こんな自分ではいけない」という強固な意志が生まれ、爆発的な力を生み出す。

 

この「ネガティブな強い力による達成」は、

その源が不快感情であるにも関わらず、ストイックな実行力を発揮し、

「成功」や「一時的な全能感と恍惚感」を生む。

これが脳に「強烈な快感と達成感」という「ドーパミンの洪水」をもたらす。

 

この連鎖がその先に生み出すものとは。

 

乞うご期待ー