ヤマダ電機が会員制になる日
先週か先々週でしたかね。
ネットで通販の盛況をやっていて、「カカクコムで値段とか口コミで機種を絞って量販店で実物を見て通販で買う」そんな消費者の行動が増えているみたいな話でした。どこで見たのか忘れましたけど。
「量販店も大変だな。」と言うのが第一感で、次に「売るって大変だよな。」と言うのが次の感想でした。そんなわけで「10年後の(日本の)営業」について考えてみました。
ここでいう「営業」とは営業職と言う言葉が指す営業で、
そもそも論からいえば、
「こちらが欲しいモノと相手の欲しいモノを交換する、またはその約束を取り付ける行為」
と言うモノになるでしょうか。まあ、貨幣経済ですので通常こちらの欲しいモノが「通貨」であちらの欲しいモノが「商品」または「サービス」と言うことに落ち着くのですが。また「欲しい」とある以上、それは欲望に関係するので永続性を気にしなければ、そのとき限りの欲望の喚起でOK、と言うことになります。
大量生産・大量消費社会は基本的にこの「そのとき限りの欲望の喚起」を喚起できる社会層に対して集中的に行い、拡大する社会と見ることもできます。バブルの時にCM屋さんが大もうけできたのも納得です。そういう意味では現在の不況に伴う広告費の縮小は不況ではなく、経済構造の変化に原因があるのかもしれません。
話を営業について戻しますと、大別して営業には「法人営業」と(うまい言葉が見つかりませんが)「消費者営業」があると思います。
「消費者営業」とは「法人営業」と対比させるために作った私の造語ですが、要するに消費者に営業する行為です。これはそれほど大きく変わるとは思えません。日々の買い物をするために近隣の店以外から(例えば通販で)買い物をすることが多くの人の日常行動になるとは思えません。無論、通販に将来がないと言うつもりは全くなくて(というか、大いにあると思っています)個人の観点から見たときにその機会は少ないということです。(金額的なボリュームはまた別の話です。)上で述べたような消費者行動はそれなりの価格のモノをたまに買うときに行う行動だと思います。まあ、こういう行動が続くようだとヤマダ電機が会員制になる日がやってくるかもしれませんが。
将来的には新興国でAmazonみたいな会社がデジタル端末をただで配って、push型の広告を打って広告費と通販で荒稼ぎをねらう、なんてことも考えられます。(そういう意味でも現在アマゾンが売っているキンドルという電子書籍端末には注目しています。Amazonが書籍販売から始まったことを考えればこれを将来、書籍に限定しないのは当然と思います。)広告という意味では古今東西、「消費者にアプローチするプラットホームを押さえた者が勝つ」の法則ですから、そうなった場合には荒稼ぎができるでしょう。ただ、10年/日本という区切りを考えると少し難しいと思います。
「法人営業」ですが、これはかなり厳しいと思います。経済の欧米化によって超大手では国をまたがる調達が行われ、コストで振り落とされる事態がさらに進むでしょう。これは数値化可能と言うことで、その舞台に立つための営業活動は必要でしょうが、「約束を取り付ける」には営業活動ではどうにもならなくなると思います。そして、そのためにIT技術が使用されることはもう疑う余地はないと思います。とはいえ、零細企業でそのような事態はなかなか訪れないと思います。零細企業でのITによるコスト削減は日本的商習慣という「あ、うんの呼吸」によるコスト削減に追いつかないと思います。と言うことは大手から中小の間にITの濃淡ができ、それは決してきれいなグラディエーションになることはなく、どこかにギャップが生まれるでしょう。そうなるとそのギャップの下層はごっそり消滅する可能性があります。
他方、内需関連に限ってみれば高齢化や経済成長の低下によって(後者の要因が大きいと思いますが)市場規模が小さくなることが予想されます。そうなれば営業職を雇用できる余地は小さくなり(実際には全ての雇用ですが)、今後さらに厳しくなると思います。営業職は仕事を数値で評価されることが多いですが、実際の仕事は数値化できることは少ないため、一昔前の経理のように「派遣たくさん+マネージャ」という形には落ち着かないと思います。(もし、数値化できる仕事が営業の職務の大半を占めているなら明らかに時代遅れです。)もし内部に営業ノウハウや人脈の固定化を行うつもりが無いなら外部営業に委託して、固定費+歩合で行うこともできなくはないと思いますが、日本の、特に内需関連の営業では敬遠されると思います。
「他者(他社)との間に信頼関係を構築し、経済的約束を取り付ける」技術というのは今後とも長きにわたって有用な技術ではあると思いますが、信頼関係を構築するには文化的なものが必要です。つまり、前半はある種の社会集団にローカライズされたモノです。近年、先人の功績により「日本人であること」は多くの場合、利益でありました。しかし、これからもそうである保証はどこにもありません。今まで少し下駄を履いていたのかもしれません。10年後、不利益になっていない様、行動したいと思います。
「いい記事みっけ」の続き
前の記事はこちら 。
元記事を「冷静でいい記事」と書いたのに違和感を覚えた人もいるかもしれない。「現実の前に立ちすくんでいる」という記事をそう書いたのには訳がある。それが今の私たちの現実をきちんと反映していると思うからだ。
根源的な問いはこうだ。
「困っている人を助けることは無制限に正しいのだろうか?」
緊急時(事故とか災害時)に「困っている人を助ける」ことが正しくないと考える人はあまりいないと思う。それはこの国であってもなくても同じで、実際にそう行動するかどうかがその国の民度というモノだろう。
問題は平常時だ。
緊急時に「助ける」とは割と分かりやすい。食料だったり、医療だったりする。そんなに迷うことはない。けど平常時はどうだろう。この問いは様々に解釈できる。ここでは経済的な話として解釈する。
元記事にもあるように、「今、困っている」と主張する人が本当に困っているのかどうか判断するのは難しい。そして判断できたとしてもそれが正しいかどうかは分からない。ネットで声の大きな一部の人たちが揶揄しているように「働いたら負けかな」と言うような経済状況が一部にあるのも確かだ。
「無制限に」と言うのが現実的でないとしたら、現実と折り合いを付ける必要がある。こう言うときは助ける、こういう場合は助けない、という社会の価値観だ。今、私たちはここで合意が形成できていない。少数の意見の集約も残念ながら、ない。
私たちは気まぐれにあるときは助け、また助けられ、別の時には見捨て、また見捨てられる。基準がないので非常に不安で困惑している。助ける立場にある人は助けて良いものかどうか逡巡し、助けられる立場にある人は助けてもらえるかどうか、そもそも誰に訴えればいいのかも分からない。どうしてこうなったのだろうか?
今の日本の社会福祉は基本的に高度成長期に設計された。奇跡と言われた成長は「低負担・高福祉」という夢のような制度に現実味を与え、それが施行されるとともにどこかへ行ってしまった。
そういうわけでこの国の社会福祉は施行とほぼ同時に歪みを抱え、ただいま絶賛破綻中である。少なくとも私はそう認識している。とはいえ、社会福祉は別にこの世界の始まりと同時にあったモノではないので作り替えることができる。方針は理論上次に挙げるようなモノが選択可能だ。(ここでいう理論とは「ネズミ講が可能」という程度の理論だ。)
1)低負担・高福祉(夢よもう一度)
2)低負担・低福祉
3)高負担・高福祉
4)高負担・低福祉(誰得?)
現状の制度が継続するという前提に立てば今の高年齢層は低負担・そこそこ福祉、若年層は高負担・低福祉になるだろう。だからこそ継続するとは思えないのだが。
誰でも分かるとおり、継続性を考えれば現実的な解は2か3なのだが、今の与党もちょっと前の与党も1を主張して、4を実行しているような気がする。(よく言っても3か)つまり、今のところ私たちには選択肢が一つしかない。「選択できない」というこの身を呪おう。とはいえ、将来は選択できるかもしれない。もう少し考えてみよう。
2)低負担・低福祉
3)高負担・高福祉
こう書いたが、別に現実は2択ではない。要するにシーソーの片側に何キロ載せるか。と言うことだ。そして釣り合いをとらなければ継続できない、と言う制限が付いている。20キロ載せれば反対側にそれと見合ったモノが、50キロ載せればまたそれに見合ったモノが載る、と言う話だ。社会全体である程度合意がとれれば何キロ載せようと自由だ。問題はそれが同時とは限らないので不確実性があると言うことで、時間に応じたリスクをとらねばならないというわけだ。このリスクは社会福祉をなくせばとらなくてすむわけではない。その場合は社会でとるリスクを個人でとるだけだ。ここのところは勘違いをしてはいけない。
さて、ここまで負担と福祉の当たり前の関係について書いてきた。しかし個人として大事なことは「じゃあ、どれだけ負担するとどれだけの福祉があるの?」ということだ。上で述べたように「時間」というリスクがあることを念頭に置いて考えてみよう。
「これだけじゃ分からん」
と言うのが答えだ。別にからかっているわけでも時間の所為にしているわけでもない。上の選択は経済の大きさが一定の時にどの程度の負担と福祉を選択するかと言うことだ。と言うわけで私たちはもう一つ選択できる。(し、またしなければならない。「選択しない」と言うのもまた選択の内だが。)
ここ50年ほどの間、この国は電気製品と自動車で食べてきた。いつまでも同一地域で成長する産業はないので次を考えなければいけないときにきたようだ。クールとかグリーンとかいわれてきたが、今のところまだ芽は出ていない。それどころか芽が出る前に枯れてしまった感がある。(特にクールとか。)
そういうわけで「次に何で食べていくか」と言う選択が「時間」というリスクがあることを反映して複利効果で効いてくる。(少なく見積もって20才から60才まで働くと仮定して40年。1.01^40=1.49..., 1.02^40=2.20...たった1%の成長率の違いで7割も違う。単純にいえばこれがそのまま福祉の差になる。)もちろん選択したからといって40年後が確定するわけではない。「しかし私たちに何ができるか」、と言う問いの答えにかなりの影響を与えることができる。
先の選挙で今の与党が「成長戦略がない」、と批判されていた。私は寡聞にして当時の与党の成長戦略も聞いたことがない。もしこれが正しいのなら私たちには選択肢が一つもない。つまり今のところ「選択しない」という選択しか選べない。
一応念のためここに明記しておくと、私のいう成長戦略とは「一人あたりの、実質の、経済成長するための戦略」だ。人を増やしたり、インフレで名目数値が上がってもたいした意味はない。前者は将来の負担を増やすだけだし、(要するにネズミ講だ。)後者はその名の通り、名目だけだ。多くの人は人を増やしたり、数値だけを追いかけているように見える。
さて、元の問いに戻ってみよう。
「困っている人を助けることは無制限に正しいのだろうか?」
これに対する経済的な回答はこうだ。
無制限に助けることはできないので正しいかどうかは意味がない。ただし、助けることのできる人の線引きを相対的には福祉と負担の選択が、絶対的には経済成長戦略が握っている。しかしながら私たちは両者について(少なくとも積極的には)選択していない。だから、困っている人を助けることができるかどうか、(不幸なことに)判断できないでいる。
ここで申し添えておけば、上の線引きは一本とは限らない。国家と宗教の引く線が違っていてもかまわない。それどころか町内会で引く線が変わっていてもかまわない。所属する社会集団の中で合意がとれていれば、どこで線を引こうとかまわない。ただしその実質は上の2つの選択が握っているというだけだ。
そういうわけで、元記事は今の私たちの当惑している姿をあぶり出している。そう考えるわけです。いい記事だと思いませんか?
いい記事みっけ
いつも人の揚げ足取りみたいなことをしているので、年末だがらというわけでもないのですが罪滅ぼしにここ をご覧ください。こう、何というかブームみたいなモノが過ぎ去った後の冷静な分析の記事をネットで見ると「金払って無くて申し訳ない」と思うのは私だけでしょうか。(最終回なのは残念です。)
ネットの「新聞」は世界的に苦労しているようですがいっそのこと木戸銭みたいにすればいいのに。って今思った。1クリック10円なり、100円なりして金稼げばいいのに。既存のビジネスモデルにこだわりすぎ。プライド高いのかな。けど実力が露わに見えておもしろいかも。評価する側のレベルに拠るか?それにしても、これからのネットはマイクロトレードだと思うのさ。
無料コンテンツはそんなに長くないと思う。一発稼げばいいのなら別だけれども。(まあ、10年持つとは思うが)
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