五濁(ごじょく)

「ごじょく」と読みます。
「濁(じょく)」は、「けがれ、汚点」の意味。

五濁とは、末法の世で避け難い五種類の社会的、精神的、肉体的な悪事災害のことで、以下の5つがあります。

劫濁(こうじょく)
時代の汚れのことです。
種々の天災や、社会悪をいいます。

見濁(けんじょく)

見解の意味。

煩悩濁(ぼんのうじょく)

衆生が煩悩にまみれて、さまざまな悪徳がはびこること。
 
衆生濁(しゅじょうじょく)

衆生の資質が心身共に堕落し,低下すること。

命濁(みょうじょく)

人間の寿命が短くなること。


五濁悪世の世から逃れようとしても逃れられない真実があり,誰にも代わってもらうことはできません。しかし,その苦悩によりごまかしの聞かない人間のありのままの姿があらわになるのです。
苦悩を直視せず、逃げ出そうとしても、それは真の解決にはなり得ません。

お釈迦様の教えは苦悩をなくすものではなく、苦悩を見つめ、機縁として苦悩が教えになる道を説くものです。
苦悩によりひきこもるのではなく、苦悩を引き受け、立ち上がり、歩き出すところに生きる素晴らしさもまたあるのでしょう。
自ら、苦悩を持つ凡夫(ぼんぶ)として目覚めることの大切さです。

暮らしの中の仏教の言葉 > 目次を見る
「愛」は、それ自体とても素晴らしいものです、
人を慈しみ、夫を妻を愛し、家族を愛し、犬を愛し、友人を愛し・・・

そこに「区別」や「分け隔て」や「ひいき」がなければ、人は皆仏様のようになれるのかもしれません。しかし、凡夫である私たちは、他人の子より我が子が可愛く、他人の犬より我が家の愛犬を大事にするものです。


「愛」が煩悩のひとつでもあるのは、そこに愛ゆえの執着が生まれるからで、時にそれは大きな深い愛への障害にもなり得るのです。
愛欲や愛執となれば、それはいつしか「業」となります。もともと人を愛する清らかな心だったはずが、ねたみや苦しみにさいなまれることさえあります。

人を愛し、自分で育てた感情によって苦しむのですから、本当に困ったものですね。

けれど、それもまた、人間である私たちなのです。
「根気」は大切ですね。
そうは分かっていてもなかなか、育てることのできないのが、根気。

根気は、もともと「根機」と書かれました。逆さまにして「機根」(きこん)ともいいました。
その意味は,悟りを得るための宗教的素質をさすものでした。単に「根」とも「機」とも表されます。

仏の浄化を受ける時の働き,潜在能力という意味から転じて「心の働き」という意味になったものです。

「根」はサンスクリット語の「インドリヤ(indriya)」の訳語で、「眼、耳,鼻,舌,身」の五官を言います。根の優劣がそのまま宗教的素質があるかどうかにも関わるような意味合いになっていき、そこから「性根を入れる」などという言葉も生まれました。

「根性」の言語も、サンスクリット語では同じく「インドリヤ」で、根気と同じ仏教語なのです。

悟りを得るための素質と考えれば、「そうか、なかなか根気は一朝一夕に育つものではない」と思えてきます。が、それほど崇高な思いでやりとげるべきことなのだと考えれば、再び原点に戻り、続けること,根気づよくあることの大切さを教えられはしないでしょうか。


暮らしの中の仏教の言葉 > 目次を見る
最近ではあまり使わないでしょうが,小説などでは「後生だから」という言葉を見かけます。
「一生のお願い」に近いような感覚で受け止めますが、どこか古風で差し迫ったような響きがありますね。
本意は「あなたの来生の安楽のために功徳を摘むことだから、このお願いを受けいれてください)」という意味があります。

もともとは、「後生」とは「来生における安楽」「死後に極楽に往生すること」を示しています。肉体が滅び得ても,精神は滅びず、肉体もまた生まれ変わり転変すると思われており、「後生願い」「後生頼み」などは「来生の安寧』を願うものです。

今はすっかり宗教的意味は失った状態で使われています。


暮らしの中の仏教の言葉 > 目次を見る
「殺生」の原義は、生き物を殺すこと。

仏教では、「五戒」(→見る)の筆頭にあげられてもおり、在家信者が守るべき戒律の一つです。
また、「十悪」の中にも入っています。

しかし、人間の世界というものは、「殺生」がどうしてもついてまわりますね。

中には「生き物の殺生」をしなくては成立しない職業もあります。
どうしたらいいのでしょうか?
それについて、本願寺第三代覚如の『口伝抄』によくわかるエピソードがあります。

親鸞と他のお坊さんが魚鳥の肉でもてなされた時のことが書かれています。
目の前に殺生したものが置かれている。
親鸞以外のお坊さんは、殺生したものを食すために袈裟を脱いだのだそうです。
しかし、親鸞は袈裟を着たまま食したとあります。

漁や、猟、畜産・・・生きるためには、殺生を避けられない仕事です。

「今は仏教が廃れた世なので、僧侶の姿であっても、世人と心は同じだから食する。しかし,食べるからには食べられる生類を解脱させたいと思い、諸仏解脱の姿を表す袈裟の働きに期待してみようかと思い、袈裟を脱がずに食べる」という理由だったそうです。

そして、親鸞は
「さるべき強縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)と語り、殺生をも行い,食す人間を見据えました。

こう書くと「では殺生してもいいのか、戦争は?殺人は?」という意見が出てきそうです。
もちろん、戦争も殺人も断じてすべきではありません。
「不殺生(ふせっしょう)」は、浄土に生きようとする私たちの願いであり、不殺生の実践こそが人間を人間たらしめる教えでもあります。