スイマー(6) | 葡萄ヶ蔓社

葡萄ヶ蔓社

GRAPEVINEの楽曲と詞が織りなす世界観に着想を得た小説を載せています。
あくまでも、小説という形を取った個人の感想ですが、お付き合い頂ければ幸いです。

 梅雨に入ってからも、あまり雨は降らなかった。毎日適度な暑さで、水泳部にとっては好条件な日が続いた。

 洋平はあの日の翌日にはいつも通りの洋平に戻っていた。相変わらず絶好調で、今年も自由形の百メートルと二百メートルで標準タイムをクリアした。僕もなんとか千五百メートルで標準タイムをクリアでき、初めて予選会に臨むことになった。

 予選会を目前に控えた金曜日、その日は朝からざあざあ降りだった。婆ちゃんがこう雨が降らないと、水不足が心配だと毎日のようにぼやいていたのが、とうとう天に届いたようだった。大会に向けて英気を養う良い機会だと先生が判断し、珍しく部活が休みになり、僕は早々と帰宅した。

 帰宅すると、父さんの革靴が玄関にあった。婆ちゃんは台所で夕飯の準備に忙しそうにしていた。珍しくリビングで本を読んでいた父さんが「お帰り」と言ったので、僕は「ただいま」と答えた。それから、「ちょっと書斎に来てくれないか」と言われたので、制服を着替えてから行くと伝えた。その様子を見ていた婆ちゃんはやけに嬉しそうにしていた。

 父さんの書斎に行くと、父さんは既にいつものように机に腰かけていて、僕に机を挟んで向かいにあるスツールに座るよう促した。父さんと向かい合って話をするのは初めてな気がした。父さんは「学校はどうだ?」とか「水泳はどうだ?」とか急に親みたいな質問をし出したから、僕は「明後日は水泳の予選会だが、来なくて良い」と答えた。それだけ話すと話題が無くなってしまったのか、父さんは黙ってしまい、気まずい沈黙の時間が流れた。それは洋平の時とは比べ物にならないくらい重々しくて、長く感じた。

 暫くすると、躊躇いながらも父さんが口を開いた。

「大地、実は父さん再婚しようと思っているんだ。」

 雨音が激しくなったのが聞こえた。父さんの言葉は僕の耳に届いていたはずなのに、僕の脳みそがそれに対して反応することを止めてしまったかのように僕は何も思わなかった。僕を置き去りに父さんの話は続いて、再婚相手が潤子先生であるという情報が耳に入って来てもそれは同じだった。父さんの声よりも僕は雨音に気を取られていた。しばらくそうしていると、徐々に自分の鼓動が聞こえてきた。それはどんどん大きくなって、雨音と同じくらいになっていった。ふと父さんの机の上を見ると母さんがいつものように笑っていた。

 

 その日から同じような夢を見るようになった。真っ暗な空間に僕は体をくの字に丸めて浮かんでいる。辺りには何一つ遮るものが無く、暗闇は無限に広がっている。体を包んでいるのが水なのか空気なのか分からないが、そこは寒くも、暑くも無く、呼吸も苦しくない。僕は眠っているのか、起きているのかもよく分からないまま、プランクトンのように浮遊している。

 

 その翌々日、初めての予選会で僕は予選落ちに終わった。

 

 潤子先生が家族になることを婆ちゃんはとても喜んでいた。かつて僕は潤子先生が家族の一員になることを密かに想像していたわけで、この再婚話に反対する理由はなかった。なのに、僕はあの日から脳みそが何重にも覆われているような被帽感と倦怠感を感じていた。自分でも何かがおかしいと感じながらも、父さんや婆ちゃんの前では努めて明るく振舞っていた。

 学校でも今まで通りに振舞うよう努力をした。それでも、泳ぎだけは誤魔化せなかった。なんだか体が重くて、それを支えようと変に力が入ってしまい、伸びのない縮こまった泳ぎになってしまう。今まで無意識でできていたのに、同じようにやろうと考えれば考えるほどフォームが乱れていった。幸い、先生や部活仲間も僕が予選会の結果を引きずっていると思ったらしく、そういう態で慰めてくれた。洋平もそう思っているようで、「とにかく楽しもうよ」と慰さめてくれた。

 こんな風に僕の異変を誰にも悟られること無く、僕が平穏な日常を過ごしているうちに梅雨が明けた。