スイマー(5) | 葡萄ヶ蔓社

葡萄ヶ蔓社

GRAPEVINEの楽曲と詞が織りなす世界観に着想を得た小説を載せています。
あくまでも、小説という形を取った個人の感想ですが、お付き合い頂ければ幸いです。

 その日の放課後、僕は邪念を洗い流すかのように泳ぎ続けた。そうすることで、手や脚が重くなっていくのとは逆に頭の中が空っぽになっていくのを感じた。最後のほうには思考が停止し、全身の力が抜け、陸を歩くように無意識のまま水中を進んでいる気がした。

 プールから上がると、顧問の先生に千五百メートルでの競技会参加を踏まえて練習することを勧められた。今まで競泳に否定的だった僕だったが、去年、どの種目も標準タイムをクリアできなかった時、初めて悔しいと思った。それは目の前で標準タイムをクリアしていく洋平を見たからだった。かといって、百メートルや二百メートルの標準タイムをクリアしたところで洋平には叶わない。千五百メートルならエントリーする余地があるかもしれない。先生の提案は的を射ていた。それに僕は長距離を泳ぐ方が好きだ。先生に同意の意思を伝えると、練習プランを練ることになった。洋平のように僕にも泳ぐ目的ができた気がして、僕は嬉しかった。

 学校の帰り道に大きな川がある。川幅は百五十メートル位で、遊泳は禁止されているが、季節によっては釣りを楽しむ人で賑わっている。北から南に走っているその水源が市内に水を供給してくれているお陰で、僕たちの町は降雨量が少ない夏でも取水制限を免れている。川沿いの舗装路を歩くこともできるのだが、僕と洋平は好んで土手道を通って帰ることが多かった。特に夏の晴れた日は川のせせらぎを聞きながら歩くのは汗が引いていくようで気持ちが良い。

 プール開きの日も僕と洋平はいつものように土手道を歩きながら帰った。僕も洋平も饒舌なタイプではなく、お互い無言で歩くこともよくあるのだが、今日はその沈黙がなんだか気まずかった。なんとなく洋平の元気が無いように感じた。ふと昼間の猿渡とのやり取りが頭を過ったが、それを蒸し返したくはなかったので、代わりに僕は先生に千五百メートルを勧められたこと、それに乗り気であることを話した。洋平は「良かったな」と笑顔で祝福してくれたものの、どこか素っ気なくて、僕は少し拍子抜けした。

 それから、洋平はまるで隣に誰も居ないかのように、ずっと川の方ばかり眺めて歩き続けた。

「なあ、大地。大地はどうして泳ぎ始めた?」

洋平が川を見つめたまま、唐突に僕に尋ねた。物心ついた頃にはスイミングスクールに通っていた僕には初めて泳いだ日の記憶が無かった。だから、そもそも水泳を始めたのが自発的だったかどうかも僕には分からなかった。

「よく覚えてないや。」

僕は素直に答えた。

「僕もだよ。だけど、今でも泳ぎ続けてて...、時々僕はなんで泳いでるんだっけ?って思うんだ。」

なんで泳いでるかと言われると、僕の場合は単純に泳ぐのが好きだからだと思った。でも、最近それだけじゃいない気がしていた。泳ぐからには自分なりの意義を持たなければならない気がしていた。でも、それを洋平に上手く伝えられなかった。

「どうして人間は泳ぐのに理由が要るんだろうな。あの魚たちは泳ぐ意味なんて考えたこともないはずだ。」

僕が黙っていると、洋平が続けて言った。

「魚は水の中で生きる生物だから...。人間は違うだろ?」

「そっか。じゃあ、人間が泳ぐこと自体不自然なことなんだな。」

僕は洋平が暗に水泳競技会のために泳ぐことを批判しているのだと思った。僕が水泳競技会への参加を決意した日にやる気を削ぐような事を言い出すなんて意地が悪く、洋平らしくない。僕はどう返事をすべきか困ってしまった。

「大地は海か川で泳いだことある?」

しばらくして洋平が尋ねた。僕はどちらも行ったこともないと答えた。

「僕もだよ。長い間水泳をやっているのにプールでしか泳いだことがないんだよ。これも何か不自然だと思わないか?」

僕はそんなこと考えたこともなかったが、言われてみれば、人工的に泳ぎやすい環境が提供されるプールで泳いで、泳げる気になっているのは、「井の中の蛙大海を知らず」のような気がしてきた。

「競泳、嫌になったのか?」

考えあぐねた末に僕はぽつりと言った。

「そうじゃないよ。唯、僕らの居る世界以外にも、まだ知らない世界があるってことさ。」

そう言いながら、川のずっと遠くを見つめる洋平の横顔は逆光で陰影だけが濃く浮かび上がっていて、表情はよく見えなかった。そんな洋平が僕はどこか遠くに行ってしまいそうな気がした。