第54回:100年前のご当地電力のルーツとは!?/高崎経済大学・西野寿章さんインタビュー(前編) | 全国ご当地エネルギーリポート!

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-エネ経会議・特派員:ノンフィクションライター高橋真樹が行くー

全国ご当地エネルギーリポート、今回はご当地エネルギーのルーツを探る人に話を伺っています。日本に電気というエネルギーがやってきたおよそ100年前、その流れから取り残されて無電化地帯となった農山村で、人々はどのように行動していたのでしょうか?実は太陽光も風力発電もなかった時代に地域の力で「ご当地電力」を立ち上げていたのです。

高崎経済大学(群馬県)の西野寿章教授は、全国をめぐって残された記録の調査を続けてきました。そこから浮かび上がってくるのは、当時の人々のエネルギーとの関わり、そして「公益とは何か?」という、今に通じる問いかけです。ちなみに、100年前のエネルギー事情については新刊『ご当地電力はじめました!』でも紹介しています。合せてご覧ください。

今回のトピックス
・農山村ではどうやって電気を手に入れたのか?
・当時の電気の使い道と電気料金はどんなものだった?



群馬県にある鎌田発電所(提供:西野寿章)。大正14年に設立された上毛電力によって計画されていたが建設にいたらず、昭和29年に東京電力によって建設された。戦後もこうした小水力発電は重要な役割を担ってきている。

◆農山村ではどうやって電気を手に入れたのか?

いま、「ご当地電力」という形で地域エネルギー事業が注目されていますが、日本の電気事業の歴史を振り返れば、地域が大きな役割を果たしてきたことがわかります。日本で初めての電気事業は、1887年に開業した東京電灯です。その後、またたくまに電気事業者が増え、最盛期の1933年には800を越えるほどになります。電力会社が乱立して、都市部では電力会社によるシェアの奪い合いも起きるようになりました。

ところが、当時の電力会社は完全に営利主義で、儲からない所には送電線をつながないのが当たり前でした。国のルールも定まっていなかったので、採算の合わない農山村には電気が送られなかったのです。では、農山村の人たちはどうやって電気を使えるようにしたのでしょうか?

大きく分けて2つのタイプがあります。ひとつは、町や村が公営電気を設立したケースです。町村営の電気事業は、主に山村地域に120余りが設立されています。そしてもうひとつは、住民は自らが出資して、集落で電気利用組合を設立したケースです。戦前の電気事業組織として、最も小さな単位が電気利用組合でした。地域によっては山林を売り払うなどの苦労をしながらお金を工面し、高価な発電機を購入。山間部の川や農業用水路を活かした小水力発電を設置しました。

電気利用組合数の推移。1923年から急増している様子がわかる。(産業組合中央会(1929)『電気利用組合に関する調査』及び逓信省(1939)『第30回電気事業要覧』より西野寿章さんが作成)

そうしてできた電気利用組合の数は、1922年には8組合でしたが、最盛期の1937年には244組合もできています。(※)その後、国が戦争に向かう中で電力の国家管理が進み、電気利用組合は吸収されていくのですが、一部は戦後もしばらく残っていた組合もあります。例えば愛知県や北海道などには、1968年まで電気利用組合が残っていたと記録されています。電気利用組合は1府37県にも及び、全国的に広がっていました。つまり、日本の隅々まで電気を行き渡らせた主体は、電力会社ではなく住民だったという面があるのです。この事実はもっと知られて良いはずです。

※組合の数は西野さんの調査により2015年3月現在に把握されているもの

中でも、1915年に設立された長野県竜丘村の竜丘電気利用組合は、資料も比較的残っていて、電気利用組合のパイオニアとも呼べる存在です。竜丘電気利用組合の電気は、周囲の電力会社の半分以下の価格で電気を販売していました。地域のメリットを地域のために利用していたわけです。竜丘村は、現在では自然エネルギーに力を入れている町として有名になった飯田市の一部です。飯田市は今でもそうですが、昔からコミュニティによる町づくりを熱心に行ってきました。100年前に地域の人々が電気利用組合をつくり、自らエネルギーを自給していた地域が、現在も自然エネルギーの町として知られているという背景には、関連性があるのではないでしょうか。


長野県飯田市のおひさま進歩エネルギーは主に太陽光発電を町ぐるみで広めている 

◆当時の電気の使い道と電気料金は?

電気の使い道や電気料金についても触れておきましょう。当時は使い道はほとんどが電灯です。それまでは照明用に石油ランプが使われていましたが、火災になることも多く、安全な電気が求められていました。その頃、全国の農山村で主要だった産業は養蚕です。養蚕は当時、全国の農家の約4割が行っていたとされています。この群馬県でも、世界遺産になった富岡製糸場に代表されるように盛んに行われていました。養蚕は農山村の重要な現金収入源となっていました。所得を上げるには、蚕を育てて繭から絹糸を作ります。その作業は夜間も行う必要があり、電灯が欠かせませんでした。

当時の電灯は1個で13ワットの明るさのものが標準です。現在の80ワットや120ワットのものと比較するとだいぶ暗いのですが、それでも充分に役立ちました。電気料金はどうだったのでしょうか?例えば現在の家庭の居間で標準的に使われている120ワット程度の明かりを灯すのに、どれくらいの費用が必要だったかという記録があります。

岐阜県の山間地域に開業した民営電灯のケースでは、大正12年に13ワットの電灯1つが1ヵ月で70銭でした。1灯だと現在のお金に換算すると約646円程度になります。これは13ワットなので、120wの明かりを得ようとすると約6,000円となります。明治、大正時代の電気代は他の物価と比べると相当高かったのですね。(※)

そこで電球1個に長いコードを付けて、家の中で必要な場所に電球を移動させることで電気代を節約する人もいました。また、家庭によっては子どもを丁稚奉公に出しながら、電灯代をまかなっていたという記録まであります。


岐阜県郡上市の石徹白地区では、農業用水を使った小水力発電の取り組みが進んでいる

いずれにしても、当時は今と違って自分たちの電気をどうするのか、という模索が地域ごとにありました。現在は巨大な供給体制ができあがってしまっているので、地域住民がエネルギーシステムに対してモノを言う機会もないし、考えることがなくなっています。これは大きな違いなのではないでしょうか?私は、農山村の住民がエネルギー自立のために知恵を絞り、必死の努力してきた歴史を、きちんと明らかにしていかなければいけないと考えています。

※1930年当時の物価の目安として、大卒初任給が50円、カレーライス10銭。
(後編はこちら)

◆関連リンク
長野県飯田市、おひさまシンポエネルギーの記事はコチラ
岐阜県石徹白地区の小水力発電の取り組みはコチラ

新刊『ご当地電力はじめました!』では、100年前の農山村で取り組んでいた地域エネルギーの取り組みを紹介しています。

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