政治的理由を巡る小田原市との攻防を超えて | おやまだやまと公式ブログ『推譲(すいじょう)』

最近、小田原市の公共施設の貸出における『政治的理由』に関して心配になる運用が散見される事態が垣間見えつつある。


憂慮すべき、由々しき事態であることから、ここで指摘し牽制の意味も込めておきたい。


政治的理由と表現の自由の問題はしばしば裁判の場でも争われるテーマである。


憲法を大学のゼミのテーマで取り扱い、卒論を憲法をテーマに書き、最優秀論文賞をもらった人間とすると、このテーマは卒論のテーマにもなりうるし、また、現実の世界でも行政側と市民側で大きく見解がわかれる重要なテーマだと感じている。


私は小田原城二の丸広場で2014年から原発事故を忘れない、震災を忘れないという思いを込めて


おひさまマルシェというイベントを市民主体で作り上げてきた。今年までコロナ禍の中止もあったものの、何とか継続して続けてこれたことは個人としても痩せ我慢ではあったが満足なことだと思っている。


そして、このマルシェは、同じく志を同じくするさよなら原発パレード、映画上映会の実行委員と連携をして開催することが慣例となり、この12年、ある意味での伝統として形作られて来た。


おひさまマルシェの会場としての二の丸広場に集合をしてもらうことはマルシェを盛り上げてもらう意味でも必要なことだし、それぞれ別のイベントを別々でやるより連携してやることの方が効果はある。


しかし今年は、昨年にも増して政治的中立性を求める指摘というか圧力めいたものを感じる機会が多くなったと感じている。


例えば小田原環境志民ネットワークの後援申請を受けたとき、わざわざこの部分を明記して、あるいは辻村会長自身が口頭でもそのことについての指摘をしていたというし、


1/30に開催の役員会でも会のはじまる前に小田原市の環境部の伊東副部長と杉田係長が中嶋理事に


マルシェの会場でさよなら原発パレードを集合させることについて、これを取りやめるように話をしていたとのことだし、さよなら原発パレードのパフォーマンスを辞めるように圧力をかけるような話をしていた


という報告を受けたので、私は事実関係を確認する意味で、伊東副部長に電話をいれた。


そもそも


①政治的中立性とは?②公共施設の貸し借りの際にそれを判断する行政職員の裁量はどこまで認めるべき?


法学部を出た人間とするとこーいうことがとても気になる。この①と②をどう日本国憲法下の民主主義国日本で解釈をすることが妥当なのか?


これは、卒論のテーマにも修士論文にもなるのではないか?(笑)


そう、思う。


何故小田原城二の丸広場で原発いらないということを求めるパレードの集合場所を変更しなければならないのか?


これは正直、全く的はずれな、行政の職員としても公務員としても権限の逸脱行為そのもので、そんなものははじめから無効の判断を免れないので聞く必要はない…


人権感覚もまるでないかなりヤバイ発言だと。


そもそも政治的中立性とは、原発いらない、いる、どちらにも与しない、ということであろう。


故に、どんな思想信条を表現するにせよ、市民が市民の立場で市民共有の財産を借りたいと言う時に、必要な書式が整っているならば本来は形式主義を採用してこれを許可するのが妥当と考える。


まあ、日本の行政実務では恐らくこの考えはとらず、行政には裁量があることを口実に断ることも出来る、とする考えが主流だと解される。


ただし、その判断するに際しても、憲法の精神に則って判断しなければならないことは論を待たない。


思うに、原発をいらない、と主張することを理由にそのパレードの集合場所としてはならないというのは


憲法の精神、例えば国民の表現の自由に対する侵害の可能性を否定できない、と思われる。


これは、原発をいる、ということを主張することに対しても同じである。


どちらに対しても、私は、場所は行政は提供すべきと考える。


ただし強いて付け加えれば、許可をすることをもって行政が些かの勢力をも援助、助長するものではないことを明記すればいいこと。


政治的中立とは本来、こーいう判断がなされるべきもの。


まして、確かに、小田原城二の丸広場は小田原市が管轄してはいますが、それは、市民共有の財産である。


してみれば、市民が使いたいというものを使わせない、という判断は慎重の上にも慎重になされなれば


権力行使の上からも妥当ではない



国民の権利利益は国政上最大限の尊重を必要とすることは日本国憲法で高らかに明確に謳われている。


その精神は、たとえ何人たりとも侵すことのできない永久の権利


である。


憲法を身近な生活に活かして考えるとはこーいうことであり、権力者から身を守る時には憲法をこうして使わなければならないのだが、


そーいう使い方をする人は非常に少ない。


さよなら原発パレードのことについていえば、私達はこの10年間、行政の気持ちも理解を示しながら、


どこで折り合いをつけるか?


を話しながらやってきて、今の実務がある。


今回、集合場所変えろとか、色々と言って来てるのは、そーした蓄積を蓄積とも思わない所業。


私どもとしては、だから、さよなら原発パレードさん自身は小田原市の名義後援の申請も会場の借用もせず


あくまでも、おひさまマルシェが借り受ける形にして、マルシェとして集合場所を提供する。


連携してるイベントだから、アナウンスでこれから出発するので一言ご挨拶程度にしかやらない…


そんな話を積み重ねてきて今があるわけだ。


昨年がちょっとセレモニー的に大々的にやってしまう予定はなかったが、雰囲気でそ~してしまったわけで


今回はパレードの出発とマルシェ会場のトークイベントがかち合ってるので、大々的にやる時間もない。


なので昨年とは同じになるはずがない。気をつければいいだけのこと。


そうやって膝突き合わせて話し合えば、いちいちこんな憲法を大上段に構えて話すこともない。


過去のおひさまマルシェの名義後援申請はゼロカーボン推進課…。


今回のこの一連の顛末を見れば環境政策課は過去の積み上げてきた議論、経緯もわかってない。


そこのあたりの蓄積を確認したのか?席隣だぞ…ここなんだよ…


ここが問題なんだよ。


同じ小田原市ですよ?しかも同じ環境部…部や課が違えば別会社。


みたいな


行政のセクショナリズム


なんてことは言われて久しいのに。


こーいうことを一体いつまで続けるのでしょうか?


全然、市民や国民のためになってない。むしろ害悪ですらある。行政のセクショナリズムは。


民主主義というのは多数決原理を大事にするものではない。


少数者の意見や価値を民主制の過程の中で、議論の過程の中で組み込んでいくプロセスにこそ価値がある。


今、政府はしゃかりきになって原発稼働にまっしぐら。政府がそうした価値でまっしぐらになっているときであるならばこそ、


行政は、むしろ、積極的に政治的中立性を介することで、これとは違った価値を有するものに対して、その発言や表現の機会を認めていくという場を作るべきだ。


これは政治的中立性には反するという意見も出るだろう。


だけど、敢えてふみこみたい。


単にどちらの考えとも距離を取り、どちらにも与しないことを宣言することは形式的な政治的中立性を担保する考えで、消極的政治的中立性とでもいえる。


だが


民主主義の価値、憲法の価値を認めるなら積極的政治的中立性に公務員が立脚してこそ、国民の権利利益の保護にかなうことではないか?と。


小田原市の環境部の職員もあとは小田原環境志民ネットワークの役員は


もう少し憲法とか行政法に貫かれている原理原則をしっかり勉強して、このくらいのことはきちんと言えるようになってもらいたいもの。


私はこのような趣旨から、環境部の副部長とは話をして、本人たちは集合場所を変えろとは言ってない、と言ってましたけど、


中嶋くんは私にはそう言われた、と報告してまして、それは、どちらが真実を言ってるか?一目瞭然。なぜなら、中嶋くんは嘘を付くメリットが何も無いから。


だから行政はそういったんだとは思ってますが、しかし、集合場所は代えなくて良い、とのことなので、それはこれ以上追及はしませんが、


繰り返しますが、法的思考能力、リーガルマインドがあれば、こんな発言は問題だからしようはずがないわけなので


そういう発言をしないよう、ぜひ、もう少し勉強してもらいたい。



政治的中立性と表現の自由は対立関係にしばしば用いられることが多いが、

しかし、先程述べた積極的政治的中立性の概念を使えば表現の自由と対立関係にはならずむしろ補完関係にもなる。

が、現実の実務の解釈ではなかなかそうは考えないであろうから、当座としては、公務員や権力の担い手が、こうしたテーマに遭遇する時は、努めて慎重の上にも慎重に対処することが求められるのではないか?

そう、思う。