おやまだやまと公式ブログ『推譲(すいじょう)』

トランプ共和党の大敗。

 


アメリカの民主主義の底力を見せつけてくれましたね。

 

トランプに対する不満を超えた怒りが爆発した光景に、アメリカの変化を見出しています。

 

世界が大きく変わる予兆を私は感じました。

 

いや、今こそ

 

「変わらなければならない」
 

戦争の長期化による物価高が国民を苦しめている構造。

 

改めて「戦争などやってる場合か?」ということを突き付けています。

 

トランプ、習近平、プーチン、ネタニヤフといった覇権主義的思考を持つ指導者に対する嫌悪感を世界の多くの市民は感じているという事の表象が今回のアメリカの選挙結果だと思っています。

 

今後、世界もアメリカも

 

脱トランプ

 

になっていくと思います。

 

その時に日本外交はどうするのでしょうかね?

 

高市のように銀座のママよろしくおもねってべったりとくっついていくのでしょうか?

 

高市早苗という人物は、私は思想と哲学と行動に一貫性がない、と思っています。基本は「自分本位」。


彼女が寄って立つ「保守」というのも、言わば、装飾品みたいなもので、心の奥底から、それが大事だとは思っているようなものじゃないと思います。

 

そもそも、彼女の歴史認識というのは、渡部昇一とか小室直樹とか西部透とかそういった人間たちの考えをコピペしたようなものだから、


自分が心の奥底で経験などに基づいてそこから絞り出すように出できた思考ではなく言わば

 

借りものの思考

 

だから、薄っぺらいのです。

 

何故、そういうのかというと、私は学生時代、この思想にかぶれていたからよくわかるのです。


この思想をいう事が「カッコいい事」だという感じ。


高市さんの振る舞いを見ていると、かつての自分の精神構造そのものの振る舞いだという事が身に染みてわかるのです。

 

私自身はもちろん、日本という国は好きですし、日本人であることに誇りも持っています。

 

行き過ぎた自虐史観は良くないとは思っていますが、先の大戦を正当化したり、満州事変を侵略戦争でなかったとか、そういう極めて偏った歴史認識を持っているわけではありません。


また、そういう立場を持つべきではないと思います。


高市さんはまさに満州事変も侵略じゃないなどとかつてテレビ番組で話してましたからね。


非常に歴史認識は偏ってます。

 

日本はアジア諸国、とりわけ韓国や中国の人民に多大の苦痛を与えたことに思いを致し、二度と戦争をしてはならないという「平和国家」の伝承者たるべし。


これこそ、日本が国際社会で名誉ある地位を占めることにつながるのだと思います。

 

福田ドクトリン

 

というアジア外交への基本方針を今こそ、しっかり堅持して、アメリカ一辺倒でない独自の外交の柱を持つべきなのに。

 

気候変動対策を推進するパリ協定からの離脱をしているトランプ政権ではなく、


日本が積極的にその技術力を生かして脱炭素(カーボンニュートラル)をけん引していく姿勢をこの際、行っていくべきです。

 

トランプから脱却し、ポストトランプ社会を見据え「平和」と「気候変動対策としての脱炭素」を強力に推進していく方向にこの機会をとらえて舵を切るべきだと思います。

 

それが技術大国としての


日本の生き残る道です。

 

かつて、世界第二位の経済大国にまでなった、輝かしい過去を持つ日本の鼎の軽重が問われているのだと私は思います。

 

もし、こういう事に舵を切れないと、高市政権も今のトランプと同じ運命をたどることになるのだと私は感じています。

 

物価高に対して効果的な何か?を何もやっていない、という点ではトランプも高市も同じです。

 

国民の我慢も段々と限界に近づきつつあり、そのマグマがこのままでは爆発するでしょう。

 

それはまさに今次のアメリカ国民がトランプにノーを突き付けたこととオーバーラップします。

 

この機会を捉えて、高市が変化することが出来るか?(恐らくできないでしょう)。

 

という事は、いよいよ、自民党も終わりの局面に入ったという事です。

 

さて、それを踏まえて、どの政党が受け皿になるのか?

 

何となく「参政党」あたりがその受け皿になっていくのではないか?

 

そうなると、益々、日本は破局的・破滅的な状況に入っていくような感もしますが。

 

日本もアメリカの国民が今般見せつけた民主主義の底力をそろそろ見せつける時です。

 

一人一人が、これからの持続可能な未来とはどうであるべきか?そのことを誰に託すべきか?


知恵を絞り、頭を使い、考えて結論を出し、行動しなければなりません。

 

そんな意味では、日本人そのものへの鼎の軽重が問われているとも言えますね。