昨日、ホントの事だからと言って、何でも言えば良いってものではない…
相手の立場にたってものを考えることの大切さを学びました
そう書きました。
人の心の痛みがわかることが
優の精神だと…
涙を流した彼女の気持ちは私にはいたいほどその気持ちがわかりました…ホントに痛いほどにです…
彼女に悪いことは何一つなかった…ほぼ誰が聞いてもそう思う。
僕からは、もっと自分の感情、ホントに傷ついたとか、そーいうストレートな思いを伝えたらいいんだよ…
きっと、今までの生きてきた環境の中で、自分の思いより人の思いを優先させる生き方が染み付いてしまった…
だけど、そんな生き方は時に苦しいじゃないか…僕みたいに毎回毎回感情を出しまくるのもどうかとは思うけど
出さなさすぎるのもね…
昔、まだ母親がいきてる頃、特に小さかった頃は、母親がとても怖くて、兎に角、母親の言う通りの人生を送ることが
自分の居場所を守ることになる
なんて事を思っていたから、絶えず母親の顔色を伺いながら生きていたように思う…
だから、その彼女の気持ちがホントによくわかる…幸いに私は抑圧された生が開放されまくってしまったがために
今の小山田大和になってしまった…
だけど、彼女は自分がいけないんだ、自分がだめだからだ、そう思い傷ついてしまった…
傷つかなきゃ泣いたりしないからね…
相手の立場にたってものを考えることの大切さを学びましたが
それは、しかし、守屋市長やその取り巻き達の悪の所業を糾弾することに配慮する
ということではありません…
守屋市長とその取り巻きと彼女の最大の違いは、彼女には何ひとつ悪い所はなかったということ…
そういう人にはやはりこちらも配慮しなきゃいけない…
彼女を結果として傷つけたのは私がよく知る人で、私もその人のことが好きなので決して傷つけた人を責めているわけではありません。
だって
僕だって、そんな人のことだから偉そうに言えるけど、自分だって、相当ひどいことをしてきたではないか?
20年以上前だけどね
そう
反省しながらここを歩いて帰ってきたのです…
頭の中に、人の気持ちに寄り添い、人の思いに配慮しながら話すこと
自分が楽になる…
とか、
自分が満足するためにだけ
ホントの事だからと言って話すことが人を幸せにするとは限らない…
そんな意味では、この前の環境志民ネットワークの総会で、もし、守屋市長が話す場所に私がいたら間違いなく、わたしは質問をしたと思う…
今だから書くけどホントは行くつもりで、そうするつもりだったんだけど、環境政策課長から、できればやめてほしいといわれ、色々考えて
それで出した結論が、たまたま、仕事が終わりそうもなく、冒頭間に合わなくなりそうだったので
しかし、本気で行こうと思えば行けたんだけど、敢えてそれをしなかった…まさに、自然に任せた…
そしたら、守屋市長と鉢合わせもなく、私がくってかかることもなくなった…
これも、僕なりのある種のギリギリの配慮といえば配慮でした…
だけど、配慮した、とはいえないからね…その場は…
配慮しようと思って配慮したのではなく、時間がホントに間に合いそうにもない…ということがわかってきて、
それなら、環境政策課長の思いもわからないでもないし、自分の思いもあるから、どうするか?
と考えた措置であったわけです…
環境政策課長ともそんな意味では最初からわかりあえていたわけではなく、色々コミュニケーションとる中で、この人の気持ちを理解する関係になった
ということです。
対話って大事です。
意見交換も大事です。
立場を違えた者同士のね…
わかってますか?
守屋市長とその取り巻きたち…
年齢も年齢になってきてるので、そーいうこともやらないといけないのかもね…
しかし、、
それを若者に教えてもらうとは…まさに学びに年は関係ないし、若者も先生ではありますね…