成田供養祭というイベントがある。
昔、このブログでも紹介したことがありますが、コロナの影響で、この供養祭が事実上なくなってしまって久しくもあります。
この場所を管理されている、椎野さんは、成田に昔からお住いのようです。
椎野家はたどると、北条五代に仕えた剣術指南役のお家柄だそうです。
私も甲斐の国の武田家の重臣、小山田信茂、武田24将の一人ですのでどこかで接点があったかな?
北条氏は1590年(天正18年)の小田原征伐で敗軍の将となり、小田原城は開城し、
北条氏政、氏照兄弟は切腹、当主氏直は高野山へ追放という事になったわけですが、
豊臣軍の残党狩りは結構あったらしく、椎野家はその残党をかくまっていて、
ばれて、皆殺しになり
その屍を埋めたというか、多分、打ち捨てになっていた(というのも、残党狩りで殺された場合は、死体の処理なんてのは、今でいうと、車にひかれた動物と同じようなもので、そのままであったわけです。片づけてはいけない、という事なんですね。今からしたらかなり残酷です。)
ですから、言葉は悪いですが、ほおり投げて埋めたのが、写真の場所で、そこに石を積んで塚だというようなことはわかるようにしはしていたのでしょうが、供養することも憚られて、段々と忘れ去られたのかもしれませんね。

椎野さんのお話によると、その場所で、色々とやると、縁起の悪い事が続くので、色々と調べて掘り起こしてみると、墓石のような石が見つかって、以来、供養しているとのこと。
その姿勢に素晴らしいという思いを抱き、最初は個人としてお参りしたり、お金を出したりしていましたが、
ここ2、3年は「小田原かなごてファーム」として、供養祭の時期にはいつもご案内を頂くものですから、
先人の無念の思いが染みついたこの成田という場所で生活し、商売もしている人間としては、その霊魂を鎮魂し、
併せて、この地域の引き続きの安寧と、関係者の幸福を祈るべく、ちょっと遅くなりましたが、今日、一人で先ほど参拝し、お線香をあげてきた所です。

地域には、伝承として伝わっていても、これほどに移動の激しい時代、人の流入、流失が激しい時代に、地域の歴史、伝統、文化を継承していくことは並大抵のことではありません。
ですが、人は一人では生きていけず、大きなもの、目に見えないものに支えられて生きているという事を感じるには
(私は別に宗教を信じているものではないのですが、やはり、自分の力だけでは何ともなしえなかったことが出来てしまうという事を目の当たりにして、そういう考えを持つに至っています)
こういう椎野家に伝わっている成田の供養祭を、次の代にもまた次の代にも伝えていくことも大切なことである、と思っています。
北条五代祭りで、駅前で武者行列に酔いしれるのも決して悪くはありませんが、そういう時だからこそ、改めて、北条五代の知られざる庶民の歴史に思いをはせるのも、
また、歴史好きとしてはたまらなく楽しいひと時だと感じたので今日はその話をさせていただきました。