修ちゃんという幼な友達がいる。
彼は裕福な家の子だったのでいつも目新しいオモチャを持って遊ぼうと誘いにくる。
それが気に入らなかったのか、そんなときは返事もしないでソッポを向いて知らん顔していたよと母によく言われた。
それでも彼は毎日のように誘いに来た。
こんな小さい時のことが癖になったのか、いくつになっても気に障ったことを言われたりされたりするとソッポを向いてしまう。
人を傷つけてしまう不愉快にしてしまうとわかっているのになおらない。
その時になるとでてしまう誠に情けない限りである。

修ちゃんは同級生だが一つ歳上である。
だから何かと元気風を吹かすか、よく面倒を見てもらった。
足の怪我で歩くのに不自由なとき学校の行き帰りに肩をかしてくれた。
おかげで一日も休まずにすんだ。
宿題のあるときはよく誘われて彼の家で二、三人集り教えあった。
こんなときなにがし世話をやくのは修ちゃんだった。
就職先は違ったが休みの日には何かといってよく伊勢佐木町へつれてゆかれた。
ここでも兄貴風を吹かしご馳走になった。
こんなことが兵隊へ行くまでつづいた。
今では賀状のみが行き来している。
一度会いたいと思っている。

十五歳から三年間会社の寮生活をしていたときのこと、同室に茂木さんという人がいた。
横浜出身ということで仲良しだった。
当時は食糧難で寮の食事もだんだん粗末になってきた。
そのうえ偏食だったのでいつも空腹をかかえてた。
そんな時、彼はどこでどう工面してくるのか日曜は外出から帰ってくる必ず食パンを持ってくる。
それを上手に一週間に分け夕食後取り出して食べる。
そのときは必ずといってよい程呼んでくれる。
ほんの一片のパンだけど本当にうまかった。
あのときのうまかったこと今でも忘れられない。
茂木さんご馳走さまでした。

埼玉県出身の田口という友がいた。
いつも静かに口づさんでいた歌があった。
なんの歌と聞いた。
この歌は故郷の村がダム建設の為湖にしずんだときの歌だと、そう言ってゆっくり歌って聞かせてくれた。
いつの間にか歌詞も節もそのまま覚えていた。
戦後この歌のレコードを手に入れることができた。
歌手は当時有名な東海林太郎さん。
題名は湖底の故郷。
今でも教えられたとおりに口づさんでいる。

追憶
復員してまもない頃二人の同志に会った。
一人は東京の篠沢清見生徒
一人は同郷の小金定吉生徒
篠沢さんとはどちらが誘い誘われたのか桜木町駅前で会った。
焦土と化した街では行くあてもなかった。
駅前の川のほとりを野毛の闇市の賑わいをよそに歩いたり立ち止まったり石垣に腰をかけたりしてどのくらい歩いたのかどのくらいの時間がたったのかそして何を話したのかは今はもう記憶に残っていない。
それでも私にとっては忘れられない一時であったことは確かだ。

小金さんとは戦後の食糧難のこともあって長野方面へ米の買出しに行った。
どういういきさつでそうなったのかは覚えていないが長野行の汽車に乗っていた。
戦後湯沢あたりに来たときは大雪のため汽車は動かなくなった。
車両は買出しの人で身動きができない程雪は汽車の窓まで積もっていた。
結局は何も買わずに帰ってきた。
その時彼はパン屋をやりたいといっていた。
其の後彼が洋菓子パン製造工場に務めていることを知った。
初心貫徹彼らしいと思った。

時代劇をみているときの善悪入り乱れて切合う場面になると必ずといってよいほどその昔少年兵として訓練を受けていたときのことが重ってくる。
前後列それぞれ二十五名に分かれ頭に八巻で薄い丸い板をつけお互いに打合った時のことである。
いつの間にか山本という生徒を目標にするようになっていた。
彼は明治中学剣道部に在籍していたとか。
彼と打合うまえに割られることがしばしばでなかなか彼と打合うまでにはいかなかった。
それでも彼と打合うことができたときは、ここぞとばかり猪突猛進ここを先途を大いに攻めたが割った記憶は残っていない。
戦終った彼のさわやかさ。
訓練の中でも最も楽しいものの一つであった。

同窓(期)生たちもっとも永らく年賀の便りとりがあった。
平良本生徒より賀状が絶えて三年たった。
会報では同志たちの安否を知らせがあったが今はそれもなくなり安否の事をしることもできない。
彼らは戦後食糧難の折秋田名産りんごを送ってくれたことがあった。
そのころは物価統制令のきびしかったことから務支となった動植物品として送ってもらうことにした。
ところがいつまでたっても品物が届かなかった。
その後しばらくしてふとしたはずみで局内のお偉い方が人知れず食べてしまったことを知った。
食べ物の恨みは恐いというが、そんなわけでリンゴは食べることはなかった。

こんな昔のことを思い出した