12月28日 ~ ラヴェル、パリで病没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?雪だるま

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

 

今日、12月28日は・・・”管弦楽の魔術師”とも呼ばれた 「モーリス・ラヴェルの命日」 です。

 

Joseph Maurice Ravel: 1875.3.7-1937.12.28; フランスの作曲家

(画像はwikipediaからお借りしました)

 

今日はラヴェルの命日です。今年は生誕145年だったんですね。

私もラヴェルは大好きです。クラシックを聴く前はボレロくらいしか知りませんでしたが、「のだめ」でピアノ協奏曲も知ったし、ピアノ作品も大好きなものばかりです。

彼は”オーケストラの魔術師”とも称され、ストラヴィンスキーには”スイス製の時計のように精密な音楽”と評されました。20世紀の音楽に多大な影響を与えたフランス近代音楽の代表的な作曲家のひとりです。

 

今日も長くってすみませんあせる 興味ない方はスルーでお願いしますクローバー

 

*以下参考にしたのは、wikipedia, 英語版wikipedia, 文芸ジャンキー・パラダイスbuzzap.jp、月刊誌「モーストリー」などです。

 

モーリス・ラヴェルは、1875年3月7日にフランス南西部のスペインに近いバスク地方のシブールで生まれました。母親のマリーはバスク人、父ジョゼフはスイス人で発明家、実業家でした。モーリスが生まれて3か月後に一家はパリへ移住、その3年後に弟のエドゥアールが生まれました。 病弱だったモーリスを母親は溺愛し、母親はよく彼にバスク民謡を歌って聞かせたそうで、母を通じてバスク地方の影響を受けたと言われています。

 

ラヴェルの生家(オランダ様式の建物)

(画像はwikipediaからお借りしました)

 

音楽好きの父親の影響を受け、ラヴェルは7歳のときにシャブリエの友人のヘンリー・ギスからピアノを習い始め、12歳からはチャールズ・レネと和声、対位法、作曲などを学びました。

1888年(13歳)にピアニストのリカルド・ヴィニェスと知り合い、生涯にわたる友人となりました。ヴィニェスはのちにラヴェルの初期のピアノ作品の多くの初演を務め、またヴィニェスの影響で文学にも興味を持ち、のちにボードレールやマラルメの詩の歌曲や、「夜のガスパール」を作曲しました。

 

1889年(14歳)にパリ音楽院へ入学。 また同年パリで開催された万国博覧会でリムスキー=コルサコフの音楽やジャワのガムランなどアジアの民族音楽に大きな影響を受けました。

1891年(16歳)に音楽院の予科から本科に移籍、ピアノと和声学を学びました。学内のピアノコンクールで一等賞を受賞しました。 しかし、音楽院の保守的な体制などに疑問を抱き(本科に入って何の賞を獲得することができず学則にしたがって中退、と書いてあるものもありました)、20歳のとき(1895年)から3年間音楽院を離れました。

 

1895年のシャルル・ド・ベリエのピアノクラス。向かって一番左端がラヴェル(20歳)

(画像は英語版wikipediaからお借りしました)

 

 

1898年(23歳)に音楽院へ再入学し、ガブリエル・フォーレに作曲を学び、強く影響を受けました。デュポアが教えていた必修科目のフーガはラヴェルは0点をつけられました(デュポアはラヴェルを常に批判していたらしい)が、フォーレはラヴェルの個性を自由に伸ばし、彼の鋭い感覚に磨きをかけました。

同年、ラヴェルは国民音楽協会の演奏会で作曲家として公式デビューを果たしますが、彼の作品は議論の対象となりました。また、彼はシャブリエサティ(ラヴェルに初めてサティを紹介したのは父親だそう)を賞賛したので、伝統主義が支配的な院内では反目を買ったといいます。

1899年(24歳)に代表作のひとつとなる「亡き王女のためのパヴァーヌ」(⇒「今日の曲」)を作曲。ルーブル美術館で観たベラスケスのマルガリータ王女の肖像画にインスピレーションを得て作ったともいわれます。

 

若い頃のラヴェルは髭をたくわえていたんですね~。

30代以降は髭を剃っているそうです。

(画像はbiography.comよりお借りしました)
 

1900年(25歳)に「ローマ大賞」に挑戦するも落選、入賞できなかったため音楽院のクラスを除籍されてしまいますが、翌年聴講生として再びフォーレに師事、ピアノ曲「水の戯れ」を作曲しフォーレに献呈しました。当時斬新な技法がなされており、新時代を切り開いた作品とされます。しかしサン=サーンスからは「不協和音に満ちた作品」と酷評されました。この年2回目のローマ大賞に挑戦し、3位に入賞。 1902年(27歳)に3回目のローマ大賞に挑戦するも入賞できず。

1903年(28歳)に「弦楽四重奏曲」を作曲しフォーレに献呈、ドビュッシーに絶賛されました。同年4回目のローマ大賞に挑戦しますが入賞できず。

1905年(30歳)には応募資格が30歳までという規定から、ラヴェルは最後(5回目)のローマ大賞に応募しましたが、予備審査の段階で落選してしまいました。当時すでに有名だったラヴェルが予選落ちしたことは社会的にも大きな波紋をよび、作家ロマン・ロランらが文化大臣に抗議文を書くなど大きなスキャンダルとなりました。結果、音楽院院長のデュポアは辞職に追い込まれ、後任にフォーレが就任、音楽院改革に乗り出しました。(「ラヴェル事件」
この年にラヴェルは音楽院を卒業、ピアノ組曲「鏡」や七重奏曲「序奏とアレグロ」、ピアノ曲「ソナチネ」を作曲しました。


1908年(33歳)に管弦楽曲「スペイン狂詩曲」を作曲、高い評価を受けました。スペインの作曲家ファリャは「スペイン人以上にスペイン的だ」と絶賛したそうです。同年、ピアノ組曲「夜のガスパール」を作曲。 この年に父が他界しました。
「国民音楽協会」が保守化したことから1909年(1910年とも)にラヴェルはこの協会から脱退、「独立音楽協会」を創設し、初代総裁に恩師フォーレが就任しました。役員にはシェーンベルク、ファリャ、ストラヴィンスキーらがいました。この協会の第1回演奏会で1910年(35歳)に作曲されたピアノ曲「マ・メール・ロワ」が初演されました(翌年管弦楽用に、2年後にはバレエ用に編曲)。


1912年(37歳)にバレエ・リュスの主宰者ディアギレフの依頼でバレエ音楽「ダフニスとクロエ」を作曲。ラヴェル自身が抜粋して第1組曲と第2組曲も作りました。
1914年(39歳)7月に第一次世界大戦が勃発、ラヴェルはパイロットとして志願しますが、体重などの面で希望はかなわず、1915年3月にトラック輸送兵として兵籍に登録されました。砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するという危険な任務をこなしましたが、途中で腹膜炎となり手術を受け、1917年(42歳)に除隊されています。

 

1916年(41歳)フランス陸軍の制服を着たラヴェル

(画像は英語版wikipediaからお借りしました)


大戦中の1917年1月に最愛の母親マリーが76歳で他界しました。ラヴェルは成人した後も母親とは密接な関係を保っており、二人で旅行に出かけたりなどしていたので母親の死はラヴェルにとって生涯最大の悲しみとなりました。彼の創作意欲は極度に衰え、3年前にある程度作曲されていたピアノ曲「クープランの墓」を完成させた他は、以後3年間にわたって新曲を書けませんでした。友人宛ての手紙には、「(母の死から約3年が経っても)日ごとに絶望が深くなっていく」と綴っています。

 

1920年(45歳)に以前からディアギレフに依頼されていた新しいバレエ音楽のために久々の新作となる「ラ・ヴァルス」を作曲(1855年頃のオーストリア宮廷を舞台としたそう)。

ラヴェルはこの作品を書いたあとも創作ペースが大幅に低下しました。

1922年(47歳)に指揮者のクーセヴィツキーの依頼により、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を管弦楽用への編曲、これにより「展覧会の絵」が蘇り、世界的に知られるようになりました。

1924年(49歳)ロンドンのラヴェル祭のために狂詩曲「ツィガーヌ」を作曲。彼はパガニーニの「24の奇想曲」を上回る超絶技巧を求める作品を目指して書いたそうです。

1925年(50歳)オペラ「子供と魔法」(全1幕)を作曲。 同年サティが59歳で他界。ラヴェルは晩年のサティを世話していたそうです。ラヴェルはサティのことを、ドビュッシーよりはるか前に大胆な音楽を編み出した天才で、最も敬意を払われるべきと訴えていました。

1927年(52歳)に5年がかりで作った最後の室内楽曲である「ヴァイオリン・ソナタ」が完成。親友の女性ヴァイオリニスト、ジョルダン=モランジュに献呈されました。

この頃から軽度の記憶障害や言語症が出現するようになりました。

 

1928年(53歳)イダ・ルビンシテインのバレエ団の依頼を受け、「ボレロ」を作曲。ご存知のように、延々と同じリズムと2種類のメロディーが何度も繰り返される単純な構造で、”世界で最も有名なミニマル・ダンスミュージック”と書いてある記述がありましたが、まさにそうだと思います。ラヴェル自身もこの曲がこんなに人気が出るとは予想外だったようです。

 

これは1930年にラヴェル本人が指揮した「ボレロ」です。

ラヴェル:「ボレロ」 (15分54秒)

/ ラヴェル指揮、コンセール・ラムルー管弦楽団 (1930年1月9日 パリで録音)

 

この年初めてアメリカを訪問、4か月に及ぶ演奏旅行を行いました(この時のツアーについてはedy classicに詳しく載っていました)。25の都市で大歓迎を受ける一方でジャズや黒人霊歌に大いに刺激を受けました。

 

アメリカツアー中のラヴェル(ピアノの前)右端はガーシュイン(1928年)

(画像はwikipediaからお借りしました)
 

1930年(55歳)に「左手のためのピアノ協奏曲」を作曲。これは第1次世界大戦で右腕を失ったウィーンのピアニスト、パウル・ビトゲンシュタインのために書いた作品です。

1931年(56歳)「ピアノ協奏曲」を作曲。 同年の欧州20都市での世界ツアーで、この作品は各地で大喝采を受けました。

 

1932年(57歳)にパリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、前々から悩まされていた言語・記憶障害の症状が進行していきました。

1933年(58歳)に最後の作品となる連作歌曲「ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ」をなんとか完成させますが、その後症状がさらに進行し、手足がうまく動かせなくなる、言葉もスムーズに出なくなる、文字や記号も思い出せないなど作曲が不可能になりました。この年の11月にパリで「ボレロ」を指揮しましたが、すでに自分のサインも書けなくなっておりこれが最後の演奏会となりました。(しかし自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを的確に指摘したそうです)

 

1934年(59歳)には周囲の勧めでスイスのモンペルランで療養しますが病状は回復せず悪化していきました。1936年(61歳)頃には周囲との接触を避けるようになり家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなりました。
彼はオペラ「ジャンヌ・ダルク」などの構想を持っていましたが、一文字も書き進めることができませんでした。友人に、『私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった。』 また、オペラ「ジャンヌ・ダルク」については『このオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね。』 と嘆いたといわれます。

1937年12月17日に原因検索のために開頭手術を受けますが、腫瘍などの異常は見つからず、昏睡状態のまま12月28日にパリで死去しました。62歳でした。彼の葬儀にはストラヴィンスキー、ミヨー、プーランクらが参列したそうです。 彼はパリ近郊のルヴァロワ=ペレに埋葬されました。

私はラヴェルは交通事故の後遺症で脳に障害を受けたのがもとで症状が進行して亡くなったのかと思っていましたが、どうやら違うのかもしれません(諸説あります)。ウェルニッケ失語症が原因と書いてあるものもありましたが、なるほどと思いました。
 

尚、ラヴェルが1921年(46歳)から亡くなるまで住んでいたパリ郊外のイヴリーヌ県モンフォール=ラモーリーの家は、そのまま保存され現在「モーリス・ラヴェル博物館」として公開されています。彼が愛用したピアノなども展示、この家で「ボレロ」「ピアノ協奏曲」「左手のためのピアノ協奏曲」などが作曲されました。 おしゃれな彼らしく、化粧台の前には香水瓶や爪やすりなどが生前のままきれいに並んでいるそうです。

 

ラヴェルが亡くなるまで16年間住んだ家(現:モーリス・ラヴェル博物館)

(画像はwikipediaからお借りしました)

 

 

ルヴァロワ=ペレ墓地にあるラヴェルのお墓

中央がラヴェル、右上に母、左上に父、下に弟の名前が彫られています

ラヴェル家の血筋は1960年に他界したラヴェルの弟で途絶えたそうです

(画像はFind A Graveからお借りしました)

 

 

それでは今日の曲です。「亡き王女のためのパヴァーヌ」です。最初はピアノ曲として書かれ、後に管弦楽曲用に編曲されました。両方を載せます。

 

かつて「大胆さに欠けて貧相な形式」と自らをほめることがなかったこの作品を、ラヴェルは記憶障害が出たあとに聴いて、「この素晴らしい曲は誰の曲だい?」と尋ねたというエピソードが残っています。

 

ラヴェル:「亡き王女のためのパヴァーヌ」  (5分54秒)

/ 辻井伸行 (Pf)   (2017年11月13日 サントリーホール)

 

 

ラヴェル:「亡き王女のためのパヴァーヌ」  (7分12秒)

/ クリュイタンス&パリ音楽院管 (1962年)

 

あと、「名曲探偵アマデウス」の「亡き王女のためのパヴァーヌ」版を見つけて、この番組がとっても懐かしかったので載せます音符

 

クラシックミステリー名曲探偵アマデウス File 18 「亡き王女のためのパヴァーヌ」(44分1秒)

 

この映像の35分過ぎにラヴェルが晩年暮らした家(現在のモーリス・ラヴェル博物館)の内部の様子がちょっと映っています。

 

この番組観始めると止まんないんですよね~にやり 私のような素人にはめちゃ面白いです音符