11月30日 ~ 不滅の巨匠 フルトヴェングラー 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

今日で11月も最後です!もみじ 今月はコンサートを聴きに2度も上京、とても楽しかったんですが、これで感染でもしていたら職場で責任問題になってただろうな汗

(先週くらいから私の職場では東京、大阪、北海道などの出張や旅行は原則禁止、やむを得ず行った場合は帰福後2週間自宅待機となってしまいました。サントリーホールぎりで行けてよかった!)

 

感染者数の爆上げ地域の方々もどうか十分に気をつけてください。

そいえば職場の上司で、相手(私)に話しかけようとすると、なぜかマスクをわざわざあごまでおろして話始めるじじいがいますぼけー しかもその状態で近寄ってくる・・・ 意味ねーやろパンチ! 

マスクは鼻まできっちりと!マスクしてても咳やくしゃみするときは腕かハンカチをマスクの上から当てる!じじい、わかったか!

お互いに気を使いつつ元気に過ごしましょ~クローバー

 

そいえば、昨日書くのを忘れましたが、昨日は本来ならミューザ川崎でこの公演を聴くはずでした。下差し

 

 

エサ=ペッカ・サロネン初聴き楽しみにしてたんですけど・・・ そして大好きなバイエルン放送響・・・ぐすん   そして今月はほんとはアクロス福岡でイツァーク・パールマンの最後の来日リサイタル公演も開催されてるはずでした(これはチラシが出来る前に中止決定)。こちらもほんとに残念でなりません。ただパールマンもサロネンもバイエルン放送響の楽団員の皆さんもとにかくお元気でいてほしい。そしたらまた会える日も来ると信じています。

 

 

 

 

11月最後の「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著の「1日1曲のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

 

今日、11月30日は・・・ドイツ最大の指揮者 「ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの命日」 です。

 

Wilhelm Furtwängler:1886.1.25-1954.11.30; ドイツの指揮者、作曲家

(画像はアルバムのジャケット写真です)

 

今日はドイツが生んだ最高の指揮者、というより史上最大の指揮者ともいわれるフルトヴェングラーが亡くなった日です。

特に日本でのフルトヴェングラー人気は死後60年以上経つ現在でも健在で、いまだに繰り返しCDや書籍などが発売されています。CDは世界で日本が一番売れ続けているのだそうです。 私も曲にはよりますが彼の演奏は大好きです。

しかし彼もまたナチス・ドイツに大いに翻弄されたひとりでもありました。

 

*参考にしたのは、wikipedia, 文芸ジャンキー・パラダイス、他私が持っている書籍、ムック本、月刊誌「モーストリー」、「音楽の友」などです。

 

 

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、1886年1月25日にドイツのベルリンで生まれました。父親は考古学者で、陶器の破片から年代特定を行う重要性に最初に気付いた人だそう。

8歳のときに父がミュンヘン大学の教授に就任したためミュンヘンへ転居しました。

12歳のとき通っていた学校を退学、以後家庭教師のもとで勉強しました。

1901年(15歳)からマックス・フォン・シリングスから作曲を学び始めました。

 

1906年(20歳)カイム管弦楽団(現・ミュンヘン・フィル)でブルックナーの交響曲第9番や自作のアダージョなどを振って指揮者デビュー。この年にチューリヒ歌劇場の第三指揮者に就任。

1909年(23歳)シュトラスブルク歌劇場の第三指揮者に就任。ハンス・プフィッツナーと知り合います。

1911年(25歳)リューベックの音楽監督に就任。在任中にアルトゥール・ニキシュと知り合いました。

1915年(29歳)マンハイムの音楽監督に就任。

 

1922年(36歳)1月に他界したニキシュの後任として、ベルリン・フィルの第4代常任指揮者に就任、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者も兼任しました。

1926年(40歳)彼にとって初録音となるベートヴェンの交響曲第5番「運命」をベルリン・フィルと収録。翌1927年(41歳)にはワインガルトナーの後任として、ウィーン・フィルの常任指揮者にも就任しました。

 

1931年(45歳)に初めてバイロイト祝祭劇場に出演、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を指揮しました。

1933年(47歳)に3歳年下のヒトラーが首相に就任。フルトヴェングラーはナチス不支持でしたが、ベルリン国立歌劇場でワーグナーの「マイスタージンガー」を指揮した際に、ヒトラーと握手した写真を撮影されてしまい、これが誤解を生むことに。9月にゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に、11月には帝国音楽院副総裁に就任。

 

1934年(48歳)ヒンデミット事件によりナチス政府と対立。12月にベルリン・フィル音楽監督、ベルリン国立歌劇場音楽監督、プロイセン枢密顧問官、帝国音楽院副総裁などの公職をすべて辞任。

 

ちょうど私は今週金曜に九響定期でヒンデミットの「画家マティス」を聴く予定です。

まさにグッドタイミングなので、長くなりますがこの「ヒンデミット事件」のことを書いておこうと思います。

 

メモ「ヒンデミット事件」とは・・・

1934年3月12日(フルトヴェングラー48歳時)にフルトヴェングラーはベルリン・フィルを振って新進作曲家パウル・ヒンデミット(1895-1963: 当時39歳)の交響曲「画家マティス」を初演、大成功を収めました。フルトヴェングラーは秋からの新シーズンでオペラ版「画家マティス」をベルリン国立歌劇場で初演する準備を進めていました。

ヒンデミットはドイツ人で、当時帝国音楽院の顧問やシャルロッテンブルク音大の教授を務めていましたが、ユダヤ人演奏家とレコーディングしたり、自作の歌劇「その日のニュース」に女声歌手のヌードシーンを入れるなどしたためナチスから危険視されていました。

同年8月にヒトラーが総統となって独裁権を掌握すると、ヒンデミットの新作オペラ「画家マティス」は上演禁止を通達されました。

これに怒ったフルトヴェングラーは、11月25日付の「ドイツ一般新聞」に「ヒンデミット事件」と題して投稿を寄せました。その中で、彼は、ヒンデミットは現代と未来のドイツの音楽においてなくてはならない人物であり、これを排斥しようとする動きを根拠のない言いがかりと断じました。ヒンデミットを用意に切り捨てることはいかなる理由があろうとも許されるべきではないと強力にヒンデミットを擁護しました。

この論評はドイツ国内外でセンセーションを巻き起こし、ベルリンのフィルハーモニーホールや国立歌劇場ではフルトヴェングラー支持のデモも起こったそうです。

これに対し、ナチスの宣伝相のゲッベルスは断固たる対抗措置を取り、前述したようにフルトヴェングラーをあらゆる公職から辞任させました。同年12月にはヒンデミットを(名指しはしないものの)「無調の騒音作家」と攻撃、ナチス寄りの新聞は一斉にヒンデミットとフルトヴェングラーを非難しました。

しかし、フルトヴェングラーの辞任後、ベルリン・フィルの技量は下がり、世界的指揮者フルトヴェングラーがドイツ楽壇の表舞台から去ったことは国際社会におけるナチスのイメージダウンにもつながりました。これに危機感をもったナチスはフルトヴェングラーに歩み寄り、早くも翌1935年3月には両者は和解し、フルトヴェングラーは同月に客演指揮者としてベルリン・フィルに復帰しました。(フルトヴェングラーはここでなんで歩み寄っちゃったんでしょう。)

とはいえヒンデミットに対する圧力は緩められることはなく、翌1936年には公式にヒンデミットの作品の演奏が全面禁止になり、1938年の退廃音楽展でも批判されました。作品発表の場を失くしたヒンデミットは、帝国音楽院の顧問の職を辞し音楽大学の教授職を休職にした上でトルコへ渡りました。その後1938年にスイスへ、1940年にはアメリカに亡命しました。

 

ちなみに、この事態に危機感を抱いた指揮者のエーリヒ・クライバーは、妻がユダヤ人だったこともあり、ベルリン国立歌劇場の第一楽長の地位を捨てて息子カルロスを連れて家族でアルゼンチンへ亡命しました。

1936年にイタリアのムッソリーニ政権を対立していた指揮者のトスカニーニは、ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にフルトヴェングラーを指名しましたが、ナチスの妨害を受けて実現しませんでした。(この時はトスカニーニもまだアンチ・フルトヴェングラーではなかったわけですね。これが実現していたら彼のその後の人生も大きく変わっていたでしょう)

 

1935年3月にフルトヴェングラーとナチスが和解し、ベルリン・フィルの指揮者に復帰したことで国際社会は彼がナチスに屈服したとみなしました。もっとも彼は決してナチスに忠誠を誓ったわけではなく、その後も反抗的な態度をとりユダヤ人の亡命を助けたりしたのですが・・・

彼の生涯の話に戻ります。

 

 

1938年(52歳)オーストリアを併合したナチス政権がウィーン・フィルを解散しようとしたのをフルトヴェングラーが阻止しました。

1939年(53歳)にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻し第2次世界大戦が勃発。多くの音楽家がナチスに抗議してドイツを去りましたが、フルトヴェングラーはドイツへ留まり、国内の多くのユダヤ人音楽家を庇護し、亡命の手助けなど人道支援を続けました。しかし国際社会はフルトヴェングラーをナチスの迎合者として批判しました。

 

1945年(59歳)ベルリンは空襲が日常化、フルトヴェングラーはナチスへの反抗的態度(ユダヤ人である作曲家メンデルスゾーンの曲を演奏するなど)が目に余るとして、ナチスの高官ハインリヒ・ヒムラーからついに逮捕命令が出ました(ヒムラーは彼に対して個人的な恨みも持っていたそうで激しく嫌っていた)。ただナチスの中には熱烈なフルトヴェングラーファンもおり、暗に亡命を勧められたそうです。2月にゲシュタポ(秘密警察)に命を狙われるに至り、彼はスイスでのウィーン・フィルの定期演奏会後にそのままスイスへ亡命しました。5月8日にドイツは無条件降伏。フルトヴェングラーは戦時中のナチス協力を疑われ、演奏活動禁止処分を受けました。

1947年(61歳)「非ナチ化」裁判で無罪判決を受け、2年ぶりに音楽界に復帰。ベルリン・フィルの終身指揮者に就任。
 

1948年(62歳)にシカゴ響の常任指揮者の要請を受けますが、ホロヴィッツ、ルービンシュタイン、ミルシテイン、ピアティゴルスキー、ハイフェッツらユダヤ系音楽家たちからの抗議により破談となりました。

1951年(65歳)終戦後初のバイロイト音楽祭が再開、7月29日に行われた記念演奏会でベートーヴェンの「第九」を指揮、”バイロイトの第九”としていまだに伝説の名演とされています。


1954年11月30日に肺炎のためバーデン=バーデンで他界しました。68歳でした。

12月4日にハイデルベルクの聖霊教会で、ハイデルベルク市名誉葬が執り行われ、ベルリン・フィルがモーツァルトの「フリーメーソンのための葬送曲」を演奏してマエストロを見送ったそうです。弔辞はカール・ベームが読みました。彼の亡骸は、ハイデルベルク市の東の山の斜面にあるベルクフリートホフ(Bergfriedhof:山の墓地)の彼の母親の墓の隣に埋葬されました。

 

ハイデルベルクのベルクフリートホフにあるフルトヴェングラーのお墓

(画像はFind A Graveからお借りしました)

 

彼のお墓の左隣に母と妹、右隣にエリーザベト夫人が眠っているそうです(エリーザベト夫人は2013年に亡くなりましたが102歳の長寿でした)。
彼の墓石には周囲に新約聖書の「コリント人への第一の手紙 第13章」が刻まれています。左に”NUN ABER BLEIBT GLAUBE, HOFFNUNG, LIEBE, DIESE DREI.”(=そうして永遠に残るものは信仰、希望、愛、この3つである。)、右に”ABER DIE LIEBE IST DIE GROSSTE UNTER IHNEN.”(=その中で最も大いなるものは愛である。)

 


それでは今日の曲です。ベートヴェンの交響曲第5番「運命」です。

 

ベートヴェン:交響曲第5番 ハ短調 Op.67 (33分16秒:第2楽章;8分6秒~、第3楽章;19分16秒~、第4楽章;25分4秒~)

/ フルトヴェングラー&ベルリン・フィル (1947年5月27日、ベルリン ライブ)

 
 


彼の実際の指揮姿も載せます。

 

モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より 序曲 (5分54秒)

/ フルトヴェングラー&ウィーン・フィル (1954年 ザルツブルク音楽祭にて)

 

 

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲、ベートヴェン:交響曲第9番より 第4楽章の一部 (14分13秒:第九は9分40秒あたりから)

/ フルトヴェングラー&ベルリン・フィル (1942年)

 

これは有名な画像だと思います。
両方とも舞台にあの忌まわしいハーケンクロイツがあります。後半の第九はヒトラーの誕生日前夜祭での公演ですが(ヒトラーは臨席していない)、演奏が終わって宣伝相のゲッベルスが舞台下からフルトヴェングラーに握手を求めています(13分50秒あたり)。フルトヴェングラーが嫌そうな顔をしているように私には見えます。そして握手した手をさりげなくハンカチで拭いているようにも・・?

それまではフルトヴェングラーは毎年主治医に頼んで診断書を書いてもらってこのコンサートの指揮を拒み続けてきたのですが、この1942年はナチスに先手をうたれて、医者に診断書を断られ、嫌々指揮をする羽目になったのだそうです。

私はこんな本を読んだことがあります。下差し

                  

菅野冬樹著 「戦火のマエストロ 近衛秀麿」(NHK出版)

 

 

菅野冬樹著 「近衛秀麿 亡命オーケストラの真実」 (NHK出版)


「戦火のマエストロ」の2年後に発刊されたのが「亡命オーケストラの真実」ですが、両方とも本当に面白かったです。面白いだけでなく、当時のナチス・ドイツの中で近衛秀麿がいかに孤軍奮闘して人道支援を行ったか、などが伝わってきて感動しました。

2冊目の方が、1冊目発刊後に分かった事実なども含めて書いてあるので、2冊目の方がよくまとまっていて読みやすいと思います。

 

近衛秀麿のことはここでは置いといて、この本の中に彼とフルトヴェングラーとのことも出てきます。出会いのエピソードや彼との交流の話の他にとても興味深かったのが、実は近衛秀麿の仲介でフルトヴェングラーは戦時中にアメリカへ亡命しようとしていたことです(これは公には知られておらず、近衛も表立っては語ってはいないようです)。この試みはほとんど達成寸前まで話が進んだのですが、オーマンディなどの猛反対でぽしゃってしまいました。

彼のアメリカ亡命が実現していたら、また彼の人生もクラシックの歴史も変わっていたのかもしれません・・・

 

フルトヴェングラーにとってちょうど熟年期の2年間の活動禁止はとても大きかったのではないかと思います。 活動を再開して7年ほどで亡くなったわけですが、晩年は聴力障害に悩まされ、ベルリン・フィルとの最後のリハーサルのときも補聴器を試そうとしたがうまくいかず、最後は「もういいよ」と諦め顔で指揮台を去っていったというような話をなにかの本で読んだことがあります。とても寂しい最後だと思いました。

 

 

フルトヴェングラーは、若いときはこのイケメンぶりですから、非常にモテたとか。

ヨーロッパ各地に彼の子孫がたくさんいる、という話を聞いたことがあります・・・にやり

 

ヨーロッパ、特にドイツやオーストリアでは今も彼は伝説的存在なのかと思いきや、ウィーン・ウィルの元コンサートマスターのライナー・キュッヒルさんのインタビュー記事かなにかで読んだ話ですが、キュッヒルさんが大学でのレッスンのときに、生徒さんに「今日はフルトヴェングラーの命日(誕生日だったかもしれません)だねぇ。」と言うと、その生徒さんは「フルトヴェングラー?誰ですかそれ?」という返答がかえってきてがっくりきたという話でした。オーストリアの音大生でも知らない時代になっているのかもしれませんね・・・ 

 

 

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1886-1954)

(画像はBARKSよりお借りしました)

 

大戦中にドイツに留まり活動し続けたことについて、彼はこう語っているそうです。

『ベートーヴェンが演奏される場所ではどこでも人間は自由です。彼の音楽はゲシュタポ(ナチスの秘密警察)も手だしのできない世界へと人間を連れだしてくれます。偉大な音楽はナチの非情な思想に真っ向から対立するので、私はヒトラーの敵です。』

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