10月14日 ~ アメリカ最大の音楽家 バーンスタイン 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?もみじ

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、10月14日は・・・ 「レナード・バーンスタインが亡くなった日」 です。

 

Leonard Bernstein: 1918.8.25-1990.10.14; アメリカの作曲家、指揮者、ピアニスト

 

 

今日は彼の命日です。今年はちょうど没後30年なんですね。

 

 

レナード・バーンスタインは、1918年8月25日にアメリカのマサチューセッツ州ボストン近郊のローレンツで長男ルイスとして生まれました(のちにレナードと改名)。父サミュエルはウクライナ系のユダヤ人移民で敬虔なユダヤ教徒で理髪店を経営していました。10歳のとき、叔母が屋根裏部屋に置いていたピアノで音楽に目覚めたといいます。

 

1929年(11歳)にボストン・ラテン・スクールに入学。

父親の強い反対を押し切って音楽の道を志し、1931年(13歳)ニューイングランド音楽院に進学、スザーン・ウィリアムズやヘレン・コーツにピアノを学びました。1934年(16歳)にはボストン・パブリック・スクール・オーケストラとグリーグのピアノ協奏曲の第1楽章を演奏しました。

 

1935年(17歳)にハーバード大学の音楽専攻課程に入学、作曲をウォルター・ピストンに学び、在学中に初の作品「クラス・ソング」を作曲。 1937年(19歳)に指揮者のディミトリ・ミトロプーロスに出会い、指揮者を志すようになったといいます。また、作曲家アーロン・コープランドにも出会い、大きな影響を受けました。

ラヴェルのピアノ協奏曲でコンサート・ピアニストとしてデビュー、翌1938年には自作を交えたピアノ・リサイタルを開催しました。

 

1939年(21歳)フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学、フリッツ・ライナーに指揮を師事。

1940年(22歳)タングルウッド音楽祭ではセルゲイ・クーセヴィツキーに指揮を学びました。

1941年(23歳)カーティス音楽院を卒業、翌年初の出版作となる「クラリネット・ソナタ」を初演。

 

音楽院卒業後、しばらく仕事がなかった時期があるものの、1943年8月(25歳)にアルトゥール・ロジンスキーに認められ、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任。同年11月に急病のブルーノ・ワルターの代役でニューヨーク・フィルを指揮、ラジオで放送されていたこともあり、一大センセーションを巻き起こしました。下差し

 

当日の放送録音よりR.シュトラウスの交響詩《ドン・キホーテ》の一部  (2分38秒)
(CBS radio network収録)

 

1944年(26歳)ピッツバーグ交響楽団で自作の交響曲第1番《エレミア》を初演。自作のバレエ《ファンシー・フリー》、ミュージカル《オン・ザ・タウン》初演。

1945年(27歳)ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督に就任(1948年まで)。セントルイス響を指揮して最初のレコード録音をしました。

 

1945年(27歳)のバーンスタイン
 

1946年(28歳)プラハの国際音楽祭でチェコ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー下差しロンドンでも指揮。

 

バースタインがチェコ・フィルを振った映像(シューマンのアメリカ祝典序曲:1946年5月15日)(42秒)

(これはリハーサル映像かな?)

 

1947年(29歳)にイスラエル・フィルを初めて指揮、以後終生親密な関係を築きました。

1949年(31歳)交響曲第2番《不安な時代》を自らのピアノ独奏で初演。

 

1951年(33歳)チリ出身の女優でピアニストのフェリシア・モンテアレグレと結婚、その後3人の子供(一男二女)を授かりました。愛妻家で有名でしたが、同時に自らの同性愛傾向もカミングアウトしています。 イスラエル・フィル初の海外ツアーとなる北米公演を成功させます。

 

バーンスタイン一家

 

 

左から次女ニーナ、長女ジェイミー、レナード、フェリシア夫人、長男アレクサンダー

 

 

1952年(34歳)歌劇《タヒチ島の騒動》初演(のち1983年に《静かな場所》として改訂)

1953年(35歳)にマリア・カラス主演のケルビーニ作曲の《メデア》を指揮してミラノ・スカラ座にデビュー

ミュージカル《ワンダフル・タウン》初演。
1954年(36歳)にマーロン・ブランド主演の映画《波止場》の音楽を担当。 《セレナード》初演。
1956年(38歳)にミュージカル《キャンディード》が初演

1957年(39歳)にミュージカル《ウエスト・サイド・ストーリー》が初演、大ヒットしました。同年、ミトロプーロスとともにニューヨーク・フィルの共同首席指揮者に就任。

 

1958年(40歳)にニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。アメリカ生まれの指揮者としては史上初でした。 スター性を兼ね備えたバーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代を築きました。
この年からニューヨーク・フィルの「ヤング・ピープルズ・コンサート」に出演開始。脚本、司会、指揮のすべてを手掛け、1962年から始まったテレビ中継でも人気を集めました(1970年まで)。

この番組のDVDは日本でも発売されています。(8月19日の記事で紹介しています)
 

1959年(41歳)にニューヨーク・フィルとのモスクワ公演を行い、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏が、客席にいたショスタコーヴィチからも絶賛されたそうです。

1960年(42歳)マーラーの生誕100周年を記念して、マーラー・フェスティバルを開催。

1961年(43歳)にケネディ大統領の就任式で、《ファンファーレ》を初演。 この年、ニューヨーク・フィルを率いて初来日、東京文化会館のこけら落とし公演を行いました。

1963年(45歳)交響曲第3番《カディッシュ》が初演。

1964年(46歳)にヴェルディの《ファルスタッフ》を指揮してメトロポリタン歌劇場にデビュー。その後1年間の休暇をとります。 1965年(47歳)合唱曲《チチェスター詩篇》を初演。

 

1966年(48歳)《ファルスタッフ》を指揮してウィーン国立歌劇場にデビューし、ウィーン・フィルと初の録音を行いました。 1968年(50歳)にウィーン国立歌劇場でR.シュトラウスの《ばらの騎士》で成功を収めてからはウィーン・フィルとの結びつきがさらに強まりました。

1969年(51歳)に「作曲の時間をとるために」ニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任、桂冠指揮者となりました。以後は特定のポストには就かず、世界一の客演指揮者として圧倒的な人気を博し、ヨーロッパを中心に様々なオーケストラに引っ張りだことなりました。

1970年(52歳)にニューヨーク・フィルと2度目の日本ツアー(大阪万博の公演など)。翌年《ミサ曲》が初演。1974年(56歳)ニューヨーク・フィルと3度目の日本ツアー。


1975年(57歳)ウィーン・フィルを指揮してザルツブルク音楽祭に初出演。同年、ニューヨーク・フィルを主体にした最初のマーラー交響曲全集を完成させました。

マーラーの交響曲が今のように頻繁に演奏されるようになったのは、彼の最大の功績のひとつといえますひらめき電球


1978年(60歳)に妻フェリシアが他界。病床に伏した夫人が癌と診断されると、バーンスタインは献身的に看護したそうです。夫人の死去はバーンスタインに大きな精神的打撃を与えたそうです。

 

 

1979年10月(61歳)ベルリン・フィルと生涯唯一の共演をしました。この時演奏されたマーラーの「交響曲第9番」は没後にライブ音源がリリースされ、大きな話題を呼びました下差し ウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲全集が完成(ドイツ・グラモフォン)。 同年ニューヨーク・フィルと4度目の日本ツアー。

 

マーラー交響曲第9番/ バーンスタイン&ベルリン・フィル

(UCCG4552)

 

1980年(62歳)《ディベルティメント》初演。
1984年(66歳)ホセ・カレーラス、キリ・テ・カナウを主役にした《ウエスト・サイド・ストーリー》の全曲盤を録音。

 

《ウエスト・サイド・ストーリー》の録音風景 (59秒)

 

1985年8月(67歳)、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催、ECユース管を指揮して交響曲第3番《カディッシュ》などを指揮。ソリストは五嶋みどりでした。9月にはイスラエル・フィルと日本ツアーを行い、このときのマーラーの交響曲第9番は伝説的名演といわれています。2度目のマーラーの交響曲全集をウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、コンセルトヘボウ管を指揮して完成。
 

1989年9月(71歳)7月に亡くなったカラヤンのウィーン・フィルによる追悼演奏会で、ベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第16番」の弦楽合奏版を指揮。 

12月にはベルリンの壁崩壊を受けて、東西ドイツ、アメリカ、ソ連、フランス、イギリスの混成メンバー(バイエルン放送響をメインに計6つの楽団のメンバーが参加)によるオーケストラを指揮し、ベートーヴェンの第九を演奏下差し

 

ベートーヴェン:交響曲第9番 第4楽章より一部 (1分26秒)

 

「歓喜の歌」の”Freude”を ”Freiheit (自由)”に変えて歌いました。

ちなみに、この時すでに肺癌の告知をされていたといいます。


この時の演奏はDVDとしてリリースされています。下差し

 

バーンスタイン/ベートーヴェン交響曲第9番~ベルリンの壁崩壊記念コンサート~

(ドリームライフ DLVC-8105)


1990年6月(71歳)後進の育成を目的に、札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を創設しましたが、すべに病状が悪く、サントリーホールで予定されていた演奏会すべてを振ることができず途中で帰国。(代役はマイケル・ティルソン・トーマスなどが果たした)

 

1990年8月19日タングルウッド音楽祭でボストン響を指揮、これが最後の演奏会となりました。

このことは以前記事にしています下差し

 

 

同年10月9日に指揮活動からの引退を表明、その5日後の10月14日にニューヨークで肺癌のため他界しました。72歳でした。

 


 

 

ニューヨーク、ブルックリンにあるGreen-Wood墓地にあるバーンスタインのお墓

 

 

バーンスタインは、ライバルといわれていたカラヤンの他、トスカニーニやチェリビダッケ、カルロス・クライバーらと親交がありました。フルトヴェングラーとは互いの演奏会を聴いて感銘を受け、各々演奏会後に相手の楽屋を訪問しようとしたことがあるそうですが、どちらも政治的理由(バーンスタインがユダヤ人であること、フルトヴェングラーがナチス擁護派と誤解されていたことから、周囲が会いに行くのを止めたという)から会えずじまいだったそうです。

 

 

彼のプライベート映像を観ていると、しょっちゅうたばこを持っています。彼は相当はヘビースモーカーだったそうで、彼によると14歳のときから吸っており、一日にたばこを100本(5箱)、ウィスキーを1本飲むことを日課としていたという話もあります。

とても多忙な毎日でストレスも半端なかったと思うし、たばこを吸わずにいられなかったんでしょうが、もし肺癌に侵されずなかったらもっと長生きできたのでは、と思うと‥残念です。

 

 

長くなりましたが、それでは今日の曲です。ミュージカル《ウエスト・サイド・ストーリー》からの「シンフォニック・ダンス」です。

出典本の著者近藤憲一氏は、バーンスタインが1979年に来日したときの記者会見で、

「あなたの作曲の最高傑作は、今も「ウエスト・サイド・ストーリー」では?」と質問したそうです。すると、バーンスタインから鬼のような形相で睨み返されww、身がすくんだそうです。 

「あのときはごめんなさい🙇」という気持ちを込めて、この曲を選んだそうですにやり

 

 

バーンスタイン:「ウエスト・サイド・ストーリー」から「シンフォニック・ダンス」 (23分13秒)

/ バーンスタイン&ニューヨーク・フィル  (1976年)

 

 

 

『私には好きなものが2つある。ひとつは音楽であり、もうひとつは人間。』

(レナード・バーンスタイン)