9月29日 ~ 夭逝の女流 バダジェフスカの命日 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でお過ごしでしたか?お月見

 

今日はほんとなら上京してこのコンサートに行く予定でした下差し

 

 

私の最も大好きなヴァイオリニストのひとり、レオニダス・カヴァコスが3日間にわたってベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲を弾くという夢のようなリサイタルラブ 本来なら今日から上京して3日間とも聞く予定でした。フェドセーエフ&TSO、クルレンツィス&ムジカエテルナ、バイエルン放送響、そしてこのカヴァコスと今年の私の”四大イベント”がすべて消滅して残念でなりません!ぐすん ちょうど今月のクラシカジャパンでカヴァコス&パーチェという同じコンビで同じベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲の放送があったので、それを視聴して傷心を癒しているところですにやり

 

 

 

 

さてさて、「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、9月29日は・・・あの曲で有名な 「テクラ・バダジェフスカの命日」 です。

 

 

Tekla Bądarzewska-Baranowska: 1834/38 - 1861.9.29

ポーランドの作曲家、ピアニスト

 

バダジェフスカ(ボンダジェフスカ)は、あの有名なピアノ曲「乙女の祈り」の作曲者です。

 

ところでバダジェフスカの名前で画像を検索していると、高頻度に出てくるのがこの画像下差しなんですが、

 

私がよく利用させていただいてる「いらすとや」にも「テクラ・バダジェフスカ」としてこのイラストが。

 

きっと上の肖像画を元にしてるんだと思うんですが、これほんとにバダジェフスカなんでしょうかはてなマーク 私が調べたところでは、この肖像画は「マリア・シマノフスカ(1789-1831)」のものではないかと思います。 彼女もポーランド出身のピアニストで作曲家だったことからバダジェフスカと混同されているのかもしれません。

(ただ最初に載せた肖像画もほんとにバダジェフスカなのかといわれると自信ないですがあせる

 

 

テクラ・バダジェフスカ(ポーランド語ではボンダジェフスカと発音)は、ワルシャワから北方向に100km離れた町ムワヴァで生まれました。生年は1834年、1838年、1829年などの説があります。

彼女に関する記録は極端に少ないようです。その背景にはちょうどこの時代がポーランドが地図上には存在しない国であったこと(ロシア・ドイツ・オーストリアの3国による分割統治下だった)が挙げられます。また、バダジェフスカが住んでいた地域がユダヤ人街であったため第二次世界大戦でナチスにより徹底的に壊滅させられたことも記録が極端に少ないことに拍車をかけているといわれています。もうひとつは当時は女性作曲家への着目度がとても低かったということです。 同じくポーランド出身でバダジェフスカより20歳年上のショパンの資料はたくさんありますが、女性であるバダジェフスカがどんなに素晴らしい曲を書いたとしても、単に趣味の範囲を超えていないものとして扱われていたかもしれません。

 

バダジェフスカは本格的な音楽教育は受けていませんでしたが、裕福な家庭の出身で、当時ポーランドで良家の子女のたしなみとして普及していたピアノに親しんでいたと思われます。

サロンのピアノ演奏家として活躍、自ら作曲も行っていました。「乙女の祈り」は1851年(17歳頃?)に作曲しました(ポーランドの日刊紙に楽譜の広告の記録があるそうです下差し)。

 

1851年4月14日発行のワルシャワの日刊紙「ワルシャワ・クーリエル」より

 

「最近ボンダジェフスカ嬢作曲による《乙女の祈り》というピアノ曲が出版された。楽譜は各ミュージック・ショップで購入可能。価格は45コペイカ」という内容の記事です。

 

 

彼女自身が自宅や街頭などで楽譜を手売りもしたそうです。翌年には重版され、2年後には第8版を重ね、なんと100万部が売れたそうですびっくり 現代のように通信が発達してないし、レコードも何もない時代を考えるとこれだけでもすごい数字です!

 

そして「乙女の祈り」がポーランド国内のみならず、どうして世界中で有名になったのかというと、フランスの著名な音楽雑誌「La Revue et Gazette Musicale de Paris」が1858年9月に雑誌の付録として楽譜を付けたことがきっかけでした。タイトルはフランス語でLa prière d'une vierge とつけられました。

 

 

バダジェフスカは23歳のころ結婚しました。夫のヤン・バラノフスキは妻の音楽に理解があり、3人の子供をもうけ、さらに姉の2人の子供を引き取って5人の子供たちの母親となりました。

しかし、1861年の今日、9月29日にワルシャワで23歳あるいは27歳くらいで病死しました。

早世した妻を偲んで、夫のヤンはワルシャワの墓地に楽譜を携えて立つバダジェフスカのお墓を建てました。

 

ワルシャワのボヴォンズキ墓地にあるバダジェフスカのお墓

めちゃめちゃ立派ですね!第2次世界大戦で被害は受けなかったのでしょうか。

 

 

夫のヤンは、その後独立運動へ参加したという罪で中央アジアで流刑され、その後の消息は不明のようです。子供のうちの2人はワルシャワ音楽院で学んだそうですがやはりその後の消息は不明なのだそうです。

 

彼女に関する作品や資料は、第2次世界大戦などによって大半が消失したため、現在では「乙女の祈り」以外はほとんど知られておらず、特に本国ポーランドでは認知度が低いそうです。これは「祈り」という言葉が、共産圏の影響下にあったポーランドで不適切とみなされたため、あるいは19世紀の音楽時点が、正規の音楽教育を受けていない彼女に対して酷評した(偏見が大いにありそう)ことも原因といわれています。

 

生涯で34-35曲を作曲したという記録がありますが、信憑性は乏しいともいわれ、確実に彼女の作品として出版されたものは、「乙女の祈り」、「マズルカ」、「甘き夢」、「田舎小屋の思い出」の4作品のみともいわれます。

前述したフランスの音楽雑誌「La Revue et Gazette Musicale de Paris」の1863年号の編集者は、彼女の死後に出てきた作品の数々はすべて違う作り手によるものだと告発しています。

 

「乙女の祈り」は人気度は日本が一番かもしれません。

明治時代に楽譜が持ち込まれて以来、根強い人気を誇っています。

認知度の低かったポーランドでも近年は再評価され、バダジェフスカを偲ぶイベントが開催されるなどしているそうです。

 

それでは今日の曲、もちろん「乙女の祈り」です。

 

バダジェフスカ:「乙女の祈り」 Op.4   (4分26秒)

/ ラン・ラン (Pf)

 

ラン・ランこんな曲も弾いてたんですね~にやり

 

ちなみに日本語のタイトルに使われている「乙女」という単語は、一般的な少女という意味ではなく、聖母マリア~乙女~処女を意味しているそうです。日本では「乙女」という単語が純粋、初々しさなどよいイメージを連想させるので一層人気を博したといわれているそうです。

 

バダジェフスカも世が世なら、もっとたくさん作品を後世に残していたかもしれません。

メンデルスゾーンの姉ファニーやクララ・シューマンだって、「姉」とか「妻」とかいう呼称じゃなく、世が世なら偉大な作曲家やピアニストとして弟や夫に肩を並べて学校の音楽室に肖像画が飾られる存在になっていたかもしれませんね。

 

 

うちでは子供の頃に3つ上の姉がいち早く全音ピースの「乙女の祈り」を手に入れて、得意げに弾いていました。「乙女の祈り」を弾く姉がなんだかとても大人びて見えて、嫉妬で悔しくって、冒頭のミ♭から始まる8音のオクターブの連打だけを一生懸命練習した私でした・・・チュー