9月20日 ~ 北欧の巨人 シベリウス 他界 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、連休は楽しんでおられますか?お月見

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。(写真はwikipedia、観光サイトのtripnote、アイノラの公式サイト(ainola.fi)などwebからお借りしました)

 
 

 

今日、9月20日は・・・フィンランドの国民的英雄 「ジャン・シベリウスの命日」 です。

 

Jean Sibelius:1865.12.8-1957.9.20; フィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト

 

 

ご存知、シベリウスはフィンランドの国民主義音楽の創始者にして最も偉大な作曲家といわれています。彼の生誕日の12月8日はフィンランドでは国旗掲揚日とし、「フィンランド音楽の日」としてお祝いするそうです。

彼が生きた時代は、日本でいうと慶応元年~昭和32年にあたり、明治・大正・昭和を生き抜いて第2次世界大戦後の復興まで見届けた人生といえます・・・

今日も長いです!あせる

 

 

ジャン・シベリウスは、1865年12月8日にヘルシンキの北約100キロのハメーンリンナで生まれました。フィンランドは当時ロシア帝国の支配下にありました。父親は軍医でしたが、ジャンが2歳のときに患者から感染した腸チフスで死亡、多額の借金が残りました。そのため当時妊娠していた母親は、不動産を売却して同じハメーンリンナに住む彼女の母親(ジャンの祖母)に一家で身を寄せました。 ジャンは7歳から叔母にピアノを習い、10歳には伯父からヴァイオリンを与えられ、15歳からヴァイオリンを学び始めました。

 

ハメーンリンナのシベリウスの生家

 

 

11歳のシベリウス(1876年)

 

音楽家になることに家族の猛反対もあり、1885年(20歳)にヘルシンキ大学法学部に進学しますが、音楽への情熱を捨てきれずすぐにヘルシンキ音楽院(現シベリウス・アカデミー)に転入し、1889年(24歳)まで同音楽院でヴェゲリウスやブゾーニに師事してヴァイオリンや作曲を学びました。

 

1889年に政府の奨学金を得て、ベルリンとウィーンへ留学。ベルリンではR.シュトラウスの「ドン・ファン」の初演やワーグナーのオペラや楽劇を観たりなど多様な演奏会やオペラに接し見識を広めました。この頃ブラームスとも会ったそうです。

 

1891年(26歳)のシベリウス

 

ちょうどこの頃にヴァイオリニストになる夢を諦めたといいます。当初は名高いヴァイオリニストを目指して、ウィーン・フィルのオーディションも受けたそうですが、あがり症だった彼はステージで失敗し、作曲家の道を選ぶことになります。(自身は「ヴァイオリンを始めるのが遅すぎた(15歳から始めた)」と書いているようです)

 

帰国後、1892年(27歳)にフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」に霊感を得た「クレルヴォ交響曲」を自らの指揮で初演、高い評価を受けました(しかしその後は抜粋で3度演奏されたのみで、シベリウスの生前に全曲が演奏されることはなかったそうです)。この曲でフィンランドの民族主義的ロマン主義の道を開いたともいえます。 

同年、フィンランドの名門の令嬢アイノ・ヤルネフェルトと結婚、のちに六女をもうけました(うちひとりは2歳で他界)。 

 

シベリウスの妻アイノ(1888年)

アイノが17歳の頃でジャンと出会ったころです。美人ですね~ラブ

 

シベリウスは生活のためもあり、1892年から母校のヘルシンキ音楽院やカヤヌスの指揮学校で教鞭をとっていましたが、これにより作曲のための時間が制限されていました。

しかし1897年(32歳)からフィンランド政府から2000マルクの国家終身年金が与えられることになり(当初は10年間という期限付きでしたが、後に終身の交付へと延長された)、音楽院の教職を辞し、作曲活動に専念できるようになりました。

 

1898年(33歳)、ベルリンでベルリオーズの「幻想交響曲」を聴いて感銘を受け、「交響曲第1番」の作曲に取り掛かり、翌1899年(34歳)ヘルシンキで初演、好評を博しました。

ちょうどこの頃、ロシア皇帝ニコライ2世がフィンランドに対してロシア化しようと圧政を行っており、国内でも独立の気運がが高まっていました。 同年、後に”第2の国歌”といわれ代表作となる交響詩「フィンランディア」を作曲、これで彼は国民音楽家として圧倒的な名声を得ました。

「フィンランディア」の初演については、以前7月2日の記事で詳しく書いています下差し

 

 

1900年(35歳)、パリ万国博覧会で国内のオーケストラと参加して自作を指揮、同年ストックホルム、コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリンなど13の都市を演奏旅行し、国際的に彼の名前が認知されました。同年三女が2歳で夭逝。

翌年イタリアを旅行し創作欲を刺激され、「交響曲第2番」を作曲、翌1902年(37歳)にヘルシンキで初演、大成功を収めました。

 

1903年(38歳)に「イギリスへ演奏旅行。この頃シベリウスは過度な飲食で大金を支払うなど不摂生な生活がたたり身体を壊すなどしたため、心機一転、ヘルシンキ郊外のトゥースラ湖のほとりのヤルヴェンパーに自邸「アイノラ」(アイノの居場所という意味)(後述)の建築を始めました。費用の工面のため、国内外で演奏旅行を行いました。

 

1904年(39歳)にようやく「アイノラ荘」が完成、妻と3人の娘と移り住み以後の活動の拠点としました。同年「ヴァイオリン協奏曲」初演されますが、不評だったため大幅に改訂、1905年にドイツでR.シュトラウス指揮での改訂版初演は成功し、代表作の一つとなりました。

 

1915年に撮影された「アイノラ」

 

シベリウスは1907年始め(41歳)頃からヘルシンキで再び暴飲暴食の生活に浸るようになり、シャンパンとロブスターに途方もない金額を費やした(wikiより)そうです。このことで妻アイラは極度の疲労によって療養施設への入所を余儀なくされました。シベリウスは禁酒を決意し、「交響曲第3番」を作曲、同年9月に初演されますが第2番ほどは受け入れられませんでした。

この頃ヘルシンキを訪れたマーラーと出会っており、彼がマーラーにこのことを話すと、

『新しい交響曲を発表すると、ファンは去っていくものです。』 と語ったそうです。

 

1908年(43歳)にベルリンで喉の腫瘍(喉頭癌?)を摘出する手術を受けます(前年にもヘルシンキで手術を受けていましたが、その後体調が悪化したためベルリンで腫瘍摘出術を受けたそう)。シベリウスは術後に大好きだった葉巻と酒をやめる決心をしました。

(このときの闘病で感じた死の不安などから、作風は内向的となり、1911年(46歳)に彼自身が”心理的交響曲”と呼んだ「交響曲第4番」を完成させました。)

手術の成功に安堵した彼は、その後イギリス、スウェーデン、アメリカなどで公演、作曲活動も精力的に行いました。

 

1914年(49歳)に第一次世界大戦が勃発。シベリウスはサラエボ事件のニュースを米国からの帰途に聞いたそうです。この大戦によって国外からの印税収入が滞るようになったため、彼は国内の出版向けに多量の小作品を作曲せざるを得ませんでした。

1915年(50歳)、自身の生誕50周年記念行事の祝賀演奏会で「交響曲第5番」を初演、癌による死の恐怖から解放された喜びを歌いあげ、好評を得ました。

 

1917年(52歳)にロシア革命が起こり、帝政ロシアが崩壊するとフィンランドは共和国として同年12月に独立を宣言、悲願の国家独立を成し遂げました。(が翌月にはフィンランド内戦が開戦、右派白衛軍と左派赤衛軍とが闘い、この際身の危険があったシベリウス一家はアイノラからヘルシンキへ移りました。)

 

この頃からシベリウスは飲酒を再開(一生やめるって誓ったのに汗)、このことで妻アイノとよく口論になったそうです(1920年(55歳)の誕生日に6,3000マルクもの寄付を受け取り、一部は借金の返済にあてたそうですが、一方で過度な祝賀会は1週間も続いたそうです)。

1921年(56歳)にイングランドとノルウェーで演奏旅行を行い大成功しました。

 

1922年8月にフリーメーソンに加入。

1923年(58歳)に「交響曲第6番」を、1924年(59歳)に最後の交響曲となる「交響曲第7番」(セシル・グレイは「ベートーヴェン以後、最大の交響曲作家」と絶賛しました)を発表。ストックホルム、ローマ、コペンハーゲンなどの演奏会はいずれも成功を収めましたが、この頃には彼はアルコール依存症のようになっていました。

 

1923年(58歳)のシベリウス

 

1925年(60歳)に最後の交響詩「タピオラ」を作曲。

この年、フィンランド政府は彼に支給する終身年金を10万マルクに増額しました(28年前は2000マルクなので50倍!)。さらに年金とは別に60歳記念として国民の寄付金27万マルクを贈ったそうです。 しかし、この政府、国民の想いがかえってプレッシャーになったのか、なんとこれ以降32年後に他界するまで作品の発表はほとんどありませんでした。

 

1929年(64歳)を最後に新作は発表されなくなり、事実上の隠遁生活を送りました。

人々はこの約30年に及ぶシベリウスの沈黙を、”アイノラの静寂”と呼んだそうです。

 

ただ、彼が交響曲第8番に取り組んでいたことは家族や秘書の証言からも事実のようです。

1931年頃にはクーセヴィツキーに第8番の初演を約束しており、ロンドンでは一般告知までもされたようです。ただし彼は厳しい自己批判のため内容に満足できず、妻アイノの証言では、1940年代(おそらく1945年)に彼は大量の原稿をダイニングの暖炉で燃やしたそうで、この中に第8番の楽譜もあったのかもしれません。(大量廃棄したあとのシベリウスは穏やかになって明るくなったそうです・・・) 彼が書けなくなった原因としてうつ症状に悩まされていたという話もあります。

彼は親しい友人には、「もし7番よりもよい交響曲を書くことができなかったら、7番を最後とせねばならない」と語っていたそうです。

 

公の場に姿を現したのは、1935年の70歳の誕生日が最後となりました。

1939年の元旦(73歳)にシベリウスは国内外向けのラジオ放送に出演、「アンダンテ・フェスティーヴォ」を指揮。(このときの演奏はCD化されており、これが恐らく現存する唯一のシベリウスの自作自演)

 

1939年(73歳)のシベリウス

 

 

ヤルヴェンパーでのシベリウス夫妻(1940年代はじめ)

 

シベリウスは1957年の今日、9月20日にヤルヴェンパーで脳出血を起こし、91歳で他界しました。晩年は、『こんなにも自然が美しいのに、この世に別れを告げるのはつらい』と話していたそうです。

ヘルシンキの大聖堂で国葬が行われた後、棺は自邸のアイノラに運ばれ、裏庭に葬られました。彼の死去後も妻アイノはアイノラに住み続け、1969年に97歳で亡くなりました。

1972年に没後15年を機にシベリウスの娘たちがアイノラを国家に譲渡、その後アイノラ財団が設立され、1974年から博物館として一般公開されています。

 

「アイノラ」邸(現在は博物館として2階が一般公開)

 

 

 

 

アイノラは2階建ての1階部分が公開されていて、居間、食堂、書斎、仕事部屋兼寝室が見学できるそうです。家具や食器の一部は木工学校に通ったことがあるアイノ夫人が設計したそう。

 

シベリウス愛用のピアノ

このピアノは彼の生誕50周年記念に贈られたものだそう。

 

 

食堂にある月桂樹の輪(写真右上)は85歳の誕生日に国民から贈られたものだそうです。

 

 

ちょうどこの暖炉にもたれかかって家族を見守るシベリウスの写真を見つけました

 

 

手前はシベリウスが息をひきとったと言われるベッド

 

上の写真の中の机に座って仕事をするシベリウス

 

 

 

 

書斎

 

 

この書斎でシベリウス夫妻と著作家のサンテリ・レヴァスと(1940年代)

 

 

敷地内にはサウナ小屋も。(さすがフィンランド!)

 

 

裏庭にあるシベリウスのお墓(妻アイノとともに眠っています)

(義理の息子で建築家のアウリス・ブロムシュテットのデザインによる)

 

 

この家には、小さな雑音さえ作曲の集中力を妨げる、という理由から、シベリウスが亡くなるまで水道管が敷かれなかったそうです。びっくり 作曲中は家族も音を立てないように静かにせねばならず、娘たちはピアノを弾くことももちろんできなかったそうです。

 

また、海外へ行くことが多かったシベリウスは、アイノが好きだったコーヒーカップをお土産に買って帰ることを欠かさなかったそうです。

 

夫がどんな時でもずっと支え続けたアイノのことを、シベリウスはこんな風に語っています。

『 鉄のように強い意志と情念が君には秘められている。 』

 

 

長くなりましたが、それでは今日の曲です。交響曲第2番より第3、第4楽章です。

 

ジャン・シベリウス:交響曲第2番より 第3楽章、第4楽章 (24分31秒)

/ バーンスタイン&ウィーン・フィル

 

実際のシベリウスの映像も載せます。妻アイノや愛娘のおふたりハイジとマルガレータも登場します(お嬢さんおふたりはピアノの連弾やヴァイオリンも弾いています)

 

Jean Sibelius at Home 1927/1945 with Aino, Heidi, and Margareta  (6分16秒)

 

つるっぱげ(失礼w)で葉巻をくわえているシベリウスはまるでマフィアのボスみたいですにやり

 

フィンランドの自然を愛しながらも、都会では派手な飲み食いに大金をつぎ込んで身体を壊し、禁酒、禁煙を誓いながらもまた手を出しちゃう・・・ってなあたりが人間臭くていいなと思います。 そして国から多額の年金をもらいながらも全く新作を発表しなかった(できなかった)のも、相当なプレッシャーを抱えていたのかなとも思います。

 

 

『 批評家の言うことなど、気にする必要はない。批評家を称えて銅像が建てられたためしなどまったく無いのだから。 』 (ジャン・シベリウス)