諸宗 破折

諸宗 破折

私鬱将軍が、日蓮正宗の法華講の一信徒としての活動や
SNSでの論争やその所感 仏教書籍の紹介など赤裸々に綴るブログです。 コメントお待ちしてます、

大坊棟札は誰がなんのために作ったのか

今回は 大坊棟札の

富国天母山に於いて三堂並びに六万坊を造立なすべきものか

について考察していきいます。

 

前回富国ってどこだよという話を書きましたが、やはり富士山周辺を指す用語として富国は出てきません

そもそも日興上人、日目上人の著作に全く出てこないのですから当たり前です

当国の旧字の當国であるという指摘があるが、だとしても日興上人、日目上人の筆には一書にも當国と書いてあるものは存在しない

 

当国と書いている諸師はまず日道上人の御伝土代 それから佐渡の日満師の日満抄。 日郷師書簡、あとは日郷門下のなかで

日我師が使っている。

 

いずれも南北朝時代や室町以降の文献であり

大坊棟札もそれ以降に

成立した文書であることは確定だが

当初尊門がつくった可能性が一番高いと思っていたが ここにきて郷門の用語がでてくるとは意外である。

 

 

 

 

 

 

 

大坊棟札は誰が何のために作ったのか

今回は

大石寺が本門戒壇之霊場だと言ってるのにその後天母原に三堂並びに六万坊を建てる。

ということについて書きたいと思います。


大坊棟札には

名号大石寺領主南条修理大夫平時光法号大行地所被寄附之本門戒壇霊場

日興日目等代々加修理丑とら之勤行

無怠慢可待広宣流布国主被立此法時者

富国於天母原三堂並六万坊可為造営者也

とあります。


はい意味が分かりません。名前を大石寺と号して

南条時光に寄進て貰った本門戒壇の霊場


広宣流布の時は富国において天母原に

三堂(本尊堂 垂迹堂 御影堂)並びに六万坊を立てる。とあります

そもそも大石寺か本門戒壇霊場なのだから

そのまま大石寺に立てるのものです。

なぜ本門戒壇霊場ではない

『富国』の天母原に立てるのか意味不明です。

そもそも富国というのは

富める国という意味で教機時国抄に出てきます。


御書や日興上人の文献に富士山周辺をさして富国なんて言い方はしません。あの地域は駿河国富士郡です。

 

大坊棟札を作成した人物は駿河国という言葉すら知らないし 

文書に矛盾があることに気が付かない愚か者だということが今回分かりました。






大坊棟札は誰がなんのために作ったのか 
今回は『大石寺』という名称がいつからあったのかです。
大坊棟札には
草創以地名号大石寺とありますが
そもそも 大石寺と名称を号していは室町時代以降の文献にしかありません。

それ以前は『大石の寺』(おおいしのてら)と呼ばれてました 大石寺と書いてあっても読みはおなじです。堀猊下の書籍には大石寺(おおいしのてら)とルビをふってます。
これが室町の頃になると文献には大石寺と出てきます。
創建以来大石寺と号しているなら大石寺と出てくる
この大坊棟札の製作者は室町以降に出てきて
大石寺という名称が仮称ではなく
正式名称だと思っている人だとわかります