諸宗 破折

諸宗 破折

私鬱将軍が、日蓮正宗の法華講の一信徒としての活動や
SNSでの論争やその所感 仏教書籍の紹介など赤裸々に綴るブログです。 コメントお待ちしてます、

大坊棟札 顕正会の好きなものです。  先日もとある顕正会員とのやり取りでも出てきました。


しかしこの大坊棟札は偽作されたものです。そんなことは誰でもわかっています。 

問題なのはこの大坊棟札を『誰が』『なんのために』作ったのかということです。

ここについて論じてる人は誰もいなかったのですこし考えたいと思います。


まずは問題の大坊棟札の裏書を見ていきます。 表の御本尊の部分も本当は見てみたいのですが

見ることは叶わないので 裏書きを見ながら考えたいと思います。


とあります。


右大坊棟札     駿河国富士上野郷之内大石ヶ原一宇   

                    草創以地名号大石寺領主南条修理

本   尊    也    大夫平時光法号大行地所被寄附之


火不能焼 水不能漂


本門戒壇之霊場日興日目等代々加修理丑とら之勤行

無怠慢可待廣宣流布国主被立此法時者

富国於天母原三堂並六万坊可為造営者也

自正應二年至三年成功

                             日興日目

正應四年三月十二日

とあります。 

この文章から分かることは 

① 大石寺が南条時光から寄進されたと思っている。

② 大石寺という名称が草創の時からあったと思っている。

③南条時光の官職が修理大夫だと思っている。

④大石寺が本門戒壇之霊場だと言ってるのにその後天母原に三堂並びに六万坊を建てると

矛盾したことを書いていた事に気がついてない。

⑤ 日興日目 と日興上人の後は日目上人だというのを知ってる人が書いている。

⑥正応四年三月十二日に大石寺が出来たと思ってる。

⑦ 御家流の書体が書ける人である。

であります。結論から言いますとこの文章を書いた人間は要法寺の関係者が創作したものだと思っています。


 ①~⑥は次にして今回は⑦の御家流の話をします。

まずこの⑦の御家流の書体について

日亨上人は

『御家流ノ稍豊ナル風ニテ』とあります。この文章は御家流という書体で書かれたものでありそれは徳川時代のものだということです。

そもそも御家流とは 室町時代に京都でつくられた流派で江戸時代の公文書に使われた書き方である。

京都なら要法寺、江戸時代には要法寺から沢山の僧侶が大石寺に来てますからね。その中の誰かが作ったのだと思います。

ちなみに 御家流の書体の日の字と大坊棟札の日は同じようにみえます。

大坊棟札


御家流











読ませていただきました。 

そもそも質問に関して何の回答もなされていないのはトチロ〜さんの方です。

そもそも御影堂には『本堂』ではなく 『本門戒壇本堂』とあります。

このことをトチロ〜さんに問うたのですが何の返答も得られていません。

とりあえず返事なのでトチロ〜さんのブログを読みながら返事を書きます。



日顕上人の三大秘法義を引用なされていますが、百六箇抄は日蓮大聖人から日興上人へ相伝されたものです。
『身延』におられた日蓮大聖人が『富士』に改めて本堂を建立せよと 
日興上人に相伝したものです。
日興上人は身延から富士に移り改めて御影堂を建立していますよ。 この事実は無視ですか?

また日興上人は『本門寺の朽木書きの御堂をば大石に立て申し随って身延澤にて立て申したりし御仏をも入れ申す』(富士宗学要集五巻頁149)と言われています。日興上人が残した本門寺の朽木書きなのですから本門戒壇の手本は御影堂であります。
日興上人は各種法要を全て本堂である御影堂にて行われていることが日興上人の書簡からも明らかです。


日興上人は日興跡条々事に『大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目これを管領し、修理を加え勤行を致して広宣流布を待つべきなり。』と言われています。 
そして御歴代上人はその相伝を代々護り 御影堂を改修し続けています。
貴方の意見を取り 建物を建て直すのならば歴代上人は将来壊す予定の建物を直し続けてることになります。
そんなことがありえますか?と、私は聞いているのです。


最後に私がXでしたトチロ〜さんへの質問をまとめておきます。
回答お願いします。

①御影堂の正式名称は本門戒壇本堂ですがそれを後々御法主上人は否定されたか?本門戒壇本堂ではないと明確に言われた文面は残っていますか?

②日顕上人は三大秘法義に『爾前権経や迹門のように別に戒壇堂を造るのではない』と言われておりますが
トチロ〜さんの主張は別に戒壇堂を造るように思われますが如何ですか?


 

 





読ませて頂きましたが、そもそも前提がおかしいです。

この方は

さてご質問の件ですが、御遺命の戒壇は広宣流布の暁に戒壇の大御本尊安置の堂宇を改めて建立することであり、既に建立されている御影堂がそれにあたることはありませ。」と言われていますが  

改めて建てるなんてことは日蓮大聖人も日興上人も言われていません。言われているというなら

日蓮大聖人、日興上人の文書から証明してください。

日蓮大聖人は百六箇抄に「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」と仰せであり

日興上人は大石記に「本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し身延澤に立て申したり御佛をも入れ申す」とあります。

日蓮大聖人が日興上人に託し建立されたのが大石寺 本門戒壇本堂である御影堂です。

身延澤に立て申したり御佛は言わずもがなです。

さらにら日興上人が各種法要をしていたのも御影堂であり

それは日興上人の御消息に認められています。


もしも、この方の言っていることを取るのなら

日興上人は日蓮大聖人の御遺命を無視して

本門戒壇にはならない御堂を建てた

ということになります。 謗法も度が過ぎてますよ。  

そもそも御影堂が再建されたときも

「本門戒壇本堂」とあります。この「本門戒壇本堂」を歴代上人の誰か一人でも否定しましたか?

1人でも文献を出して証明してください。

日顕上人も日如上人も御影堂は「本門戒壇本堂」ではないとは言われていません。

日顕上人は三大秘法義において「本門の戒壇は爾前権経や迹門の戒壇のように別に戒壇堂を造るのではない。本尊の住処が直ちに戒壇である故に「本堂」と示されたのである。広布の暁に本門戒壇之大御本尊まします本堂が、すなわち事の戒壇の意である」と言われています。

改めて堂宇を建立することは爾前権経や迹門の戒壇と同じように戒壇堂を造るのなので

日蓮大聖人の本意でありません。


だいたい御遺命の戒壇を建立することを御遺命の戒壇堂を建立することと混同してるように見受けられます。


日蓮大聖人も日興上人も本堂が戒壇であり

大石寺の本門戒壇本堂に本門戒壇之大御本尊をご安置すればそれ即ち本門戒壇の建立です。

どうして御影堂は普段御本尊様のお扉が閉まってるのか知ってもいないのですね。

広宣流布ではないから御扉を閉めているのです。

日興上人御在世当時は本門戒壇之大御本尊様がご安置されていたからその化儀として閉めているんです。 

もう少し日蓮正宗の歴史や建物を見学して勉強することをオススメします。