「命」の伝え方 | M3遣いのブログ

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ライカではなく、BMWのほうです(^^ゞ
日々想うことをまったりと・・・

小学生の子どもたちに、命(いのち)に関する話をしてほしいと依頼を受けました。


時間は制限されている(約10分間)し、しかも小学生にって、めっちゃ難しい。


どんな話をしたらうまく伝わるのか、とても悩んでいます。


直接関係ないかもしれませんが、僕は昨年、不思議な体験をしました。


仕事の上で重大なミスがあったり、同じ組織の人間から怒鳴る、無視されるなど度々攻撃されたりして八方塞がりの状態に陥ってしまった時期。


ミスの原因となった案件の処理に追われ、しばらくまともな時間に家に帰れない日が続いていました。


ようやくその日の仕事を終えたものの、外部からも内部からも責められ続け、先の見通しが全く見えない状況を悲観して、仕事を辞めてしまうことも頭をよぎりながら、僕は重い足を引きずるように自宅へと向かっていました。


職場から自宅までは歩いて20分ほどなのですが、途中に電車の踏切があります。


やがて目の前の警報機が鳴って遮断機が降り、終電近くの下り電車が通過するのをぼんやりと待っていた時、何の前触れも脈絡もなく、こう思ったのです。


「ああ、このまま電車に飛び込んだら何もかも終わって楽になれる」


それは、安易に言葉で「死にたい」とか「死んだら苦悩や後悔から解放される」というような理屈や計算ではなく、また理性を失った感情などでもなく、心の底から極めて自然にそう思いました。


死への恐怖心とか、電車にはねられたら痛いだろうという感覚も麻痺していたように思います。


それまでの僕は、こうした鉄道事故の報道に接する度に、「何でわざわざこんな方法を選ぶんだろう。実行してしまったら、ダイヤが乱れて何万人もの利用者に迷惑をかけてしまったり、家族が損害賠償を請求されたりして大変なことになるのはわかっているはずなのに。」とずっと思っていました。


しかし、その時の僕は、ただただ目の前の苦しみから逃れたい、できることならすべてを無にしたいと強く願っていて、いますぐにでもその願いを叶えたい、誰かが悲しむとか、迷惑をかけるとか、そんなことに思いを至らすことは全くできなかったのです。


幸か不幸か、その時はどうにか思い留まりましたが、それ以来僕は、同様のニュースに接した時、「迷惑をかけてしまうことはわかっていても、どうしても止めることができなかったんだな。」と少なくとも否定的に受け止めることはできなくなりました。


僕は数年前に、「どうか助けてください」と個人的に相談に来られた方を救うことができなかった、という重い咎を背負い続けています。


尋常じゃない深刻な事態だと感じたので、相談を受けてすぐに関係者に連絡を取ったり、原因となった問題の解決のための道筋をつけたり、できる限りの努力はしたつもり・・なのですが、結果的にその人を救えなかったことは動かせない事実だし、失われた命はもう二度と還らない。


葬儀に参列した人から、「まるで何かから解き放たれたように安らかなお顔だったよ。」と聞き、僕のところに相談に来られた時の憔悴しきった様子を思い出してその時は少しだけほっとした気持ちになったのですが、今はそうは思えない。


どんなに辛く苦しかったとしても、やはり、生きていてこそ。


僕自身が体験した踏切での出来事とまるで正反対のことを言っているようですが、「命」の話と言われて僕がまず思い浮かべるのはこのことなのです。


でも、とてもじゃないけどこんな深刻な話を子どもたちにはできない。


どう話したら、夢や希望に満ちあふれた子どもたちに「命の重さ」を伝えられるのか。しばらくは仕事が手につかないほど悩む日が続きそうです。


同時に、僕自身昨年のどん底の状況からほとんど何も進んでいないにもかかわらず、度々相談に乗ったり愚痴を聞いてもらったりして僕の支えになっていただいている方に、心から感謝しています。


僕があの時踏切でどうにか思いとどまることができて、今こうしていられるのも、そのおかげだと思っています。本当にありがとうございます。