熊本市議会の女性議員さんが、生後7か月の赤ちゃんを連れたまま本会議に出席しようとして紛糾した、というニュースが大きく取り上げられています。
その是非についてここで論じるつもりはありませんが、どうしても納得がいかないことがひとつあります。
それは、渦中の人である当の議員さんがテレビのインタビューで、「子育て中の母親が仕事と育児を両立することがいかに大変なことか知ってもらい、このことが一石を投じることになれば。」と言ってあったこと。
ネットニュースや新聞の報道によると、議員さんは事務局に対し公費(税金)での託児またはベビーシッターの手配を求め、事務局は公費での支出はできないので個人的にその手配をしてほしいと説明したが折り合いがつかず、今回の事態に至ったとのこと。
自治体の議員さんともあろう人が、仕事(議員活動)の間子どもを預ける先がないからといって雇用主(自治体=住民)に対して子どもに対しての直接的な手立てや負担を求めるということがいかにおかしいことなのか、理解していないはずはない。(もし本気でそう考えているとしたら論外だと思います)
それでもあえて、トラブルになることを予測しつつも赤ちゃんを抱えて出席しようとしたのなら、「パフォーマンス」「票集め」と揶揄されても仕方ないだろう。
僕が引っかかったのは、議員さん自ら発言した「一石を投じる」の「石」になったのは、ほかでもないあなたの赤ちゃんなんだ、ということを本人はわかっているのだろうか?ということです。
以前参加した、ある講演会でのことです。
被差別の立場におられる方が、いかに差別に苦しみ、差別と闘い、そして乗り越えてきたかを熱く語られました。それは、僕の抱えている「障がい」に関わる悩みなんて裸足で逃げ出すくらい、厳しく壮絶な闘いであったろうと想像します。
講演の後半に、その方のご家族が揃って登場されました。連れ合いさんと、就学前の小さな二人を含む三人のお子さんです。
講演者と連れ合いさんの熱い語りと無邪気な笑顔の子どもたちの姿に、会場の参加者が涙を拭う姿が多く見られました。
その一方で僕は、両親が話している間、意味もわからずステージ上を走り回る子どもたちを見て、なんともいえない胸が締めつけられるようなやるせない気持ちになったことを今でも覚えています。
平日の夕方の講演のために、遠方から数時間かけて駆けつけた一家。講演者ご自身は年間100回にも及ぶ講演そのものを仕事としてあるそうなので何の問題もないのでしょうが、おそらく学校や保育園を休まさせられて(日本語、合ってますか?)遠路はるばる連れてこられた子どもたちは、遠慮のない言い方をすれば「お涙ちょうだい」の道具にさせられているような感じがして、何だかやりきれない気持ちになりました。
件の熊本の議員さんが、自分の愛する赤ちゃんを「石」にしなくてもいいような社会を僕らが作らなければ、と思いますが、その道のりはまだまだ遠いと感じます。
冒頭に是非を論じるつもりはないと書きましたが、最後にひとつだけ。
議員さんに同調する意見の中で、欧米などで議場で授乳さえも認められている事例を挙げて、日本も早く追いつかなくては、などという論調も見られますが、社会も風土も文化も異なる状況を無視していきなり結果だけを真似ようとしても意味はないと、僕は思います。
テレビにたびたび映し出される、議場でお母さんに抱っこされて無邪気に笑う赤ちゃんを見て、「君は石ではないよ、ごめんね」と独りつぶやく僕でした。