手記「絶歌」の出版に思う | M3遣いのブログ

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18年前の神戸連続児童殺傷事件の犯人「少年A」による手記についての論争が巻き起こっている。

なぜ、これほど騒がれるのかというと、コトが人の生き死に、とりわけ、「人が人を殺す」ということに焦点が当たっているから。

ここで、出版の是非について論じるつもりはない。

僕が思うのは、いままさに国会で審議中の安全保障法案。論争の焦点は、集団的自衛権の行使容認が憲法違反に当たるのかどうかに集まっているようだけど、僕は別のところに関心が。

法案に反対を唱える人たちがよく街頭などで訴えているのが、
「家族を戦場に送ってもいいのですか?」というフレーズ。

その裏には、「大切な家族を戦争で失ってしまうかもしれないんですよ。」というメッセージが読み取れる。

僕は若干あまのじゃくの傾向もあるから、もし戦場に送られた家族が無事に帰ってきたとしても、

「大切な家族が、人を殺して帰ってくるかもしれないんですよ。」と考えてしまう。

戦争は、「自国の国民の安全や生活を守る」ため、と称して正当化される。

しかし、それは戦争の相手国にとっても全く同じこと。戦争に絶対的な正義などあり得ない。

手記を書いた「少年A」は、法的な裁きを受け、自らの行為を心から悔いていて、以後まっとうに生きようとしていても一生、「殺人者」のレッテルを貼られたまま。

その一方で、戦場から帰還した兵士たちは、戦場で起こったことの如何にかかわらず英雄として扱われ、称賛を受けるのだろう。

米国で戦場に送られた兵士の、かなり多くの人たちが帰還してからPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されたり、社会復帰が困難だったり、深刻な場合自殺にまで至ってしまうなどの報道を目の当たりにすると、僕の心配は杞憂とは言い切れない気がするのです。

日本を、二度と戦争をする国にしてはいけない。大切な家族を戦争で失うのも、その家族が人を殺したり傷つけたりして帰ってくるのも同じように許してはいけない。


「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」


     (huffpostより転載)

2013年度の新聞広告クリエーティブコンテストで最優秀賞を獲得した山﨑博司さんの作品です。

僕はたとえ「あまのじゃく」と言われても、この視点をこれからもずっと大切にしたい。

ちなみに、手記については、出版するのであれば実名を明らかにし、堂々とマスコミに登場して自ら説明してほしかった、その覚悟がないのであれば、出版はすべきではなかったと、僕は思っています。