駆け抜ける歓びとは? | M3遣いのブログ

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ライカではなく、BMWのほうです(^^ゞ
日々想うことをまったりと・・・

最近知り合いになったある人と、車の話になりました。


その人は、ホンダのミニバン、オデッセイに長く乗っていたけれど、最近エンジンに故障が発生してディーラーに出したら、「エンジン載せ換えますか?それとも買い換えますか?」と言われて修理をあきらめたそう。


車がないと困るので、「できるだけ早く乗れる(買える)車」というオーダーを出したら、ディーラーが「すぐ乗れます。」と持ってきたのが小型車のフィット。


あまり深く考えずに買ってしまったけれど、今は安易にフィットを選んでしまったことをものすごく後悔しているそうです。


理由は、「運転していてちっとも楽しくない」から。


へぇー。僕にとっては、ちょっとした驚きだった。特に車(の運転)そのものに高い興味や関心がないと思われる人でも、「運転して楽しい、楽しくない」っていう感覚ははっきりわかるんだ。


その人は前に乗っていたオデッセイのことを「楽しかった」と絶賛していたけど、それでもむやみにほめちぎっていたわけではなく、同じオデッセイでも世代やエンジンの違いで運転感覚が全く異なるとのこと。


前置きが長くなりました。


僕がカーライフで最も重視する、「運転する歓び」。このブログでも何度も書いたけど、BMWのクルマづくりのスローガン、『Freude am Fahren(駆け抜ける歓び)』そのものと言っていい。


ただ、ひと口に「運転して楽しい車」といっても、それを感じるのは個人の感覚だし、抽象的でわかりにくい。


僕にとっての「運転の楽しさ」とはいったい何なのか。思いつくまま、書いてみます。


・意のままに車を操ること。
車を運転するとき、誰でも無意識のうちに、自分の操作に対して事前に結果を予測しながら動かしている。アクセルをこれだけ踏めばこのくらい加速するだろう、ステア(ハンドル)をこれだけ回せば、このくらい曲がってくれるだろう、ブレーキを踏むとき、目標地点で止まるためにどこからどのくらい踏むか、などなど。


それが、頭に思い描いたイメージと実際の車の挙動がピタリと一致したとき、ドライバーは「気持ちいい、楽しい」と感じる。それがすなわち、車を意のままに操るということ。そこまでなくても、逆に自分の予測やイメージと一致しない場合は、運転操作の修正を余儀なくされ、不満やストレスを感じることにつながる。


・タイヤの仕事ぶりが気取れること。
どんなに高性能な車であっても、最終的にエンジンの仕事や車体の動きを、車を前に進めたり曲がったり止まったりする力に変えるのは、タイヤがすべて。そのタイヤが、さまざまな状況の路面とどのようにコンタクト(接触)し、どんな動きをしているのか。余裕があるのか、苦しいのか。そんな情報をドライバーが敏感に感じ取り、次の操作に反映できるかどうかというのは、とても重要なファクター(要素)だと思う。


その情報というのは、ステアを握る手から伝えられるごくわずかな振動や反力、フロアを通して伝わる音や振動がほとんど。現代の車は、遮音性をむやみに高め、エンジン音すらろくに聞こえないほどシャットアウトしてしまっている。


タイヤから伝わる貴重な路面の情報も、サスペンションや衝撃を吸収するブッシュ・マウント類によってあっという間に減衰され、各種電子デバイスがさらに路面情報の極小化に加担する。


確かにそれらは、静粛性や快適性の向上には役立っているかもしれないが、感覚を封じられたまま、ものすごいスピードで1.5tもの鉄の塊を動かしていると思うと怖くてしょうがない。


BMWは、少なくとも僕がこれまでに乗った3シリーズとM3に限って言えば、ドライバーが安心して路面の状況やタイヤの仕事を感じ取れるだけの情報はきちんと伝えてくれる。そこが、快適性=静粛性の向上&どんな路面でも滑らか(フラット)に走ること、と勘違いしている某国産メーカーと大きく違うところ。


・車体感覚が掴みやすいこと。
動いていても、静止していても、車の四隅が今どこにあるかを掴むというのはとても大事。車体だけでなく、タイヤの接地面も然(しか)り。狭い道ですれ違う時(九州では、離合といいます)、自信を持ってぎりぎりまで路肩に寄せられるかどうかなど。


しかし車によっては、その感覚が掴みづらい車が少なくない。また、掴みやすさはボディが小さければ良好なわけでもない。それは、運転席に座ってしっかりとハンドルを握った状態で見える視界や景色に大きく左右される。


もし、空力やデザインを重視してAピラーを極端に寝かせたり、サイドライン(窓のふち)を不自然に斜めにしたり、インテリアに凝りすぎてダッシュボードの形がいびつだったりすると、それはドライバーの錯覚を招き、運転感覚と実際の車の動きとの間に「ずれ」を生じさせ、結果的に運転の楽しさを損ねてしまう。


・・・と、もっともらしく御託(ごたく)を並べてはみたけれど、結局のところは運転して楽しいと感じるかどうかは極めて感覚的なものにすぎない。


BMW3シリーズをベンチマーク(到達目標)として開発されたレクサスISは、カタログスペックやコンピュータ解析で出す数値でBMWを上回ることはできても、トヨタがいうところのFun to Drive(運転の楽しさ)という点では未だ遠く及ばない。


それは、コスト要件(どこにお金をかけるか)やサスペンションのセッティングの煮詰め方など、挙げればきりがないだろうがそれよりも何よりも、クルマというモノに対する彼我(欧州と日本)の文化の違いが一番大きいような気がする。


日本で新たにデビューする新型車の中には、当初「欧州車に比肩する出来!」と賞賛されても、やがて「乗り心地が硬い、悪い」というユーザーの声に負けてグズグズ・フニャフニャの乗り心地に改悪されるクルマが少なくない。そうしなければ売れないのだから、開発陣も砂を噛むような思いだろう。


つまり、文化の違いというのは、車の作り手(メーカー)だけでなく、乗り手(ユーザー)も含めた社会全体のクルマに関する考え方の違いということに他ならない。


それは、ヨーロッパでのプロドライバー(F1やWRC、二輪のレーサーなどを含め)の社会的なステータスがとても高く、老若男女から遍(あまね)く尊敬の眼差しで見られていることからも容易に想像できる。


結論がまだでした。


僕にとっての「駆け抜ける歓び」とは、自分の手足のように車を操って、クルマとの一体感を味わうこと。パートナーとなって4ヶ月になる蜜柑号は、その片鱗を垣間見せながらもなかなか打ち解けてはくれない。


それはあたかも、「僕のポテンシャルをもっと引き出してくれよ。僕の力は、まだまだそんなもんじゃないよ。」と言ってくれているかのよう。


決められた枠(道路事情や法規制)の中ですべてを引き出すことは難しいけれど、もっと親密になれるはず、という感触はあります。ゆっくり時間をかけて、パートナーとしての絆を強くしていきたい。


さらっと書くつもりでしたが、思いのほか長くなってしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。