財務省の財政に関する、「国内向けの公式見解」に対して意義申し立てをする人が、「政府の負債は、誰かの資産」というわかりやすい言い方を考え出しています。
僕も多分、そうなんだろうな、と思いますが、これはお金の発行の仕組みが、最初に借金という形式を通過するために生じていることだと思います。
それで、実際にお金の発行がどのようにして行われているかを理解しないと、確かなことは言えないと思います。
この分野で、わかりやすい解説を出してくれているのは、三橋貴明さんだと思います。そして三橋さんの考えに対して、米山隆一さんが真っ向反対する立場に立っているのを見たことがあります。
米山さんは、どのようにお金を発行しているかは財務省の役人に聞けば教えてもらえるが、三橋さんは個人的に喧嘩した過去があるのか、役人からちゃんと話を聞こうとしないので、本当のところを理解できていないのだ、というような言い方をしていました。
そこには、米山さん自身はどういう考えなのかは出ていなかったので、どちらが正しいか判断できなかったのですが、この部分だけを取り出すと、三橋さんが自分で調べ、検討して理解しているのに対して、米山さんは権威の言うことを丸呑みにしているように見えます。
米山さんが正しい場合は、お金を発行している現場で、どういうことが行われているかを、実際に見て、説明を聞いて、それで理解したことと、三橋さんが言っていることとは全然違い、三橋さんの説は空想的としか思えない、という場合でしょう。
しかしお金の発行の現場を見たことがない立場からすると、どちらが言っていることが正しいのかわかりません。
それで説明の内容だけを評価の対象にすると、米山説は内容がほとんど伝わってこないのに対して(僕が調べてないからでもありますが)、三橋説の方が納得できる内容があるので、三橋説の方が正しいんじゃないかという現段階での評価となっています。
お金を発行すると、発行した分だけ、政府の負債が増える計算になるのは、わかる気がします。そういう仕組みであれば、お金を発行すればするほど政府の借金が増えるのは当たり前です。
そして政府が借金をしてお金を発行すると、その分だけ誰かが資産を持つというのもわかります。途中でお金を手にした人でも、自分の消費のために使ってしまえば、その人のところは素通りし、使わずに貯めて資産にする人のところにお金がたまります。
多分、資産を持つ人が、普段は節約し、使うべきところで吐き出すということをあまりせず、ためるだけで使わないせいで、お金の流通が滞るんじゃないかと思われます。
もしお金が回っているのであれば、政府が追加でお金を発行する必要はないし、発行したらお金が増えすぎて、インフレになるでしょう。
資産を持ち、使わずに死蔵するとか、実体経済と関係のないところで運用する人がいるので、お金が不足気味になり、政府が新たにお金を発行した方がいいんじゃないか、という話になってくるんじゃないでしょうか。
ところで、最初にお金を発行したので、政府に負債がカウントされている、ということなら、あまり誰も問題にしないと思います。負債がどんどん増えているので、これは大丈夫なのかと心配する人が出てくるんじゃないでしょうか。
政府の負債がみんなの資産なのだったら、負債の多い政府のもとでは、資産を持っている人がいっぱいいるはずですが、なぜお金の不足が感じられているのでしょうか。簡単に考えると、貧富の格差が拡大して、資産を持ち、さらに貯めながら節約して過ごしている人と、日々の生活物資すら賄えない人とに二極化しているなら、余っているところと、足りないところが同時に存在することになります。
社会的に考えた時の答えは、余裕がある人は、貧富の格差をなくすように全力で取り組むべき、ということになろうかと思います。
普通はそうは考えられず、努力した人や実績を挙げた人が高い報酬を受け取るのは当然だし、その人が親しい人にいい暮らしをさせたいと願うことも当然の要求だと考えられるでしょう。それで貧富の格差が広がる方向で、多くの人が動き、貧富の格差を是正する方向では、わずかな人しか動かないことになります。
ルドルフ・シュタイナーの経済学講座では、経済価値という概念を中心に展開されていました。経済運営を担当する人、考える人は、経済価値を取り扱うのだ、ということだと思います。
経済価値は、お金とも違うし、使用価値とも違います。
経済価値はおそらく、取引が成立した時点での、商品の価値で、それは時々刻々、変動するものです。
お金は、経済価値を表現する媒体で、経済価値を取り扱うための手段でもあります。お金は、経済価値を指し示すポインタのようなもので、ポインタを操作することで、経済価値も操作できます。
基本的に経済活動は、等価交換の仕組みを基礎にしていて、同じくらいの価値を持った商品を交換することで、社会人が互いに支え合っています。
もしたくさんの商品を求められ、その返礼として自分では使いきれないほどの権利を手にした人がいた場合、それは余剰となり、資本転化して、事業に使うことなどができます。
シュタイナーの考え方では、資本は人間の才知を表現する手段だということになっています。賢く使えば、自分や人々の幸福のために使えるし、愚かに使うと無駄に消費され、無に帰するということだと思います。
経済の中で資本がどれくらい動けるかは、社会の中で生じる余剰の合計が上限で、それ以上には使えません。それ以上に使うと、どこかのセクションの余剰を取り上げて、別のセクションが使うことになるでしょう。
人間が一日や一年に生産できる量には限りがあるのに、お金を操作することで、上限を超えて生産させようとすると、他にしわよせが行かざるを得ません。
たくらみを持って、実体経済を無視して、お金を増やしたり、減らしたりすることは、お金と経済価値のリンクを切ることを意味するのだと思います。
少しくらいならいいかもしれませんが、際限なくやっていると、社会の生産体制を、いびつな形に傾斜させてしまうことにつながるんじゃないでしょうか。
そして、使用価値というのは、実際に、商品を使ってみて役に立つかどうかです。
お金を出して買ったものが、家に持って帰ってくると、自分の家にはフィットせず、ごみとして出すしかなくなる、ということがあります。その場合、取引の時点では経済価値はありましたが、家に持って帰ってきた時点で、使用価値はゼロと評価されています。
その人にとっては要らないので、ゴミとして捨ててもいいし、他に欲しい人がいたら無料であげても構いません。それを無料でもらった人が、その人にとっては役立つもので、しっかりと役割を果たさせることができるということもあります。
その場合、経済価値はゼロでしたが、使用価値は一定ありました。
この無料でもらって、役に立てる経済は、交換経済の外の経済ということになります。
以上のように考えてくると、国の借金が膨大になっているので、返さなければならない、というのは、ちょっと難がある考えだと思えてきます。
貧富の格差を直すことが大きな目標としてあるのに、現在資産を持っている人の権利を保護し、さらにお金をそんなに持っていない人から税金を取って、今のシステム、今の予算配分、今の権利関係を保護しようとしているからです。
お金が増えすぎたので、1単位あたりのお金の価値が目減りするのは、自然ですが、目減りさせないために、幅広く税金をとって、お金の増えすぎを是正すると、余計に貧富の格差が開くだろうし、貧富の格差を是正するために動こうとしている人にお金を付けないことを意味します。
もう少し、穏当に、支出はしていいけど、節度を持ってやらなければならない、と言ってくれたら、だいぶいい感じじゃないでしょうか。
お金を発行しすぎると、インフレになるというのは、その通りだと思うので、用心しながらやるというのは、いい考えだろうと思います。
しかし過去の借金の穴埋めを、貧しい人から取る税金で穴埋めするというのは、事態を悪化させるアイデアのように思われます。
また社会は働かない人を食べさせることはできない、というアイデアにも、一理あるんですが、そのアイデアが貧富の格差の縮小に役に立つかというと、むしろ悪化させるように働くので、それで批判されているのだと思います。
社会の営みや、人々の生活は、多くの人の頑張りによって、かろうじて支えられるもので、手を抜いて生きる人が多くなると、社会生活が支えきれなくなるということは本当じゃないかと思います。
とはいえ、その方向での発言を手放しに評価すると、老人や病人に、健康な若者と同じように働けと言う人が出てくるので、そういった言説は手放しで賞賛することはできないのだと思います。そもそも言っても無理なのだし、無理なことを言って平気でいることは残酷です。